東京地方裁判所 昭和33年(行)182号 判決 1961年7月25日
原告 弥栄自動車株式会社
被告 中央労働委員会
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一、当事者双方の求める裁判
原告訴訟代理人は「被告が中労委昭和三三年(不再)第四号事件につき昭和三三年一一月二六日付でした命令を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告指定代理人は主文同旨の判決を求めた。
第二、請求の原因
一、被告が別紙命令書のような命令を発するに至つた経過
(一) 原告は、昭和二九年八月二一日訴外武甕留次郎を観光バスの運転士として雇傭し、一ケ月の試用期間の後本採用にしたのであるが、昭和三二年三月同人に対し、従来期間の定めのなかつた雇傭契約に同月一四日から三ケ月間の期限を付けて同人との雇傭関係を同年六月一四日限り終了せしめるという内容の懲戒処分を科した。
(二) 武甕留次郎は、同時に原告から同一内容の懲戒処分を受けた訴外松本秀一と共に、右各処分が不当労働行為にあたるとして、原告を相手取り昭和三二年五月二九日京都府地方労働委員会にその救済の申立をしたところ、その審問手続中に同年九月二一日原告の営業中観光バス部門が訴外ヤサカ観光バス株式会社に譲渡されたので、同会社もまた右救済の被申立人に追加された。かくして同委員会は昭和三三年一月二九日付で、「一、ヤサカ観光バス株式会社に対する救済申立は棄却する。二、弥栄自動車株式会社(本件における原告)は昭和三二年三月一四日付の申立人両名に対する懲戒処分(雇傭に三ケ月の期間を付ける)を取消し、右両名を昭和三二年九月二一日弥栄自動車株式会社観光バス部門からヤサカ観光バス株式会社に転職した運転士等と平等の条件で同会社に転職せしめるか、若しそれが不能ならば右両名を弥栄自動車株式会社のハイヤー又はタクシー部門に復職せしめ、かつ前記処分の日から右転職又は復職に至るまでの間両名が得べかりし賃金相当額から右両名が前記懲戒処分後ハイヤー部門で勤務していた間の賃金を控除した額を支給すること。」との命令(以下「初審命令」という。)を発した。
(三) 原告は初審命令を不服として昭和三三年二月被告に再審査の申立をしたところ(なお、原告はその後松本秀一に関する部分につき再審査申立を取下げた。)、被告は同年一一月二六日付をもつて別紙命令書のとおり、「本件再審査申立を棄却する。」との命令(以下「本件命令」という。)を発し、この命令書の写は同年一二月一〇日原告に送達された。
二、本件命令の瑕疵
本件命令が、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分は、同人が所属していた弥栄自動車労働組合(以下「組合」という。)の正当な行為をしたことを理由とするものであるから、労働組合法第七条第一号所定の不当労働行為を構成するものと結論して初審命令を維持したのは、事実を誤認し法律上の判断を誤つた結果に基くものであつて、本件命令は違法である。
よつて本件命令の取消を求める。
第三、請求の原因に対する答弁及び本件命令に瑕疵のないことについての被告の主張
一、請求の原因一に記載の事実は認める。
二、原告が武甕留次郎に対してその主張のような懲戒処分をしたについては、被告が別紙命令書の理由中第一において認定したとおりの事実が存在したのであるから、被告が別紙命令書の理由中第二において示した判断は正当であり、本件命令には違法はない。
第四、本件命令に瑕疵がないという被告の主張に対する原告の反論
一、被告が別紙命令書の理由中第一において認定した事実についての認否
(一) 第一項(当事者)は全部認める。
(二) 第二項(被申立人の職場の状況と職場委員の地位)のうち、武甕留次郎及び北義男の両名が八時間労働制実施に伴う賃金体系の改訂について組合の執行部の方針に強硬に反対したため執行部との間に感情的対立を来したことがあるとの点を否認し、その他の部分は認める。
(三) 第三項(武甕の組合活動)はすべて争う。
(四) 第四項(昭和三一年一二月から昭和三二年一月にかけての職場の紛きゆう)のうち、当時原告の観光バス課長であつた岡島邦治が武甕留次郎に対し、「この問題(古参ガイドの退職申出をめぐる紛きゆう)にタツチすると身のためにならぬ」という趣旨の、同人の進退に重大な影響を与えるべき発言をする等のことがあつたとの点は否認し、その他の部分は認める。
(五) 第五項(職場委員改選をめぐる紛きゆう)のうち、組合の職場委員の予備選挙に際して岡島課長及びその意を受けたガイド指導員土川とよ子らが策動したこと、土川とよ子が同項に認定された事件について当時その関係者の一人から通報を受けたこと及び武甕留次郎に同項で認定されているような所為のあつたことは否認するが、その他の事実は認める。但し、本項において六期生ガイドとして氏名を挙げられている者の中で「大野悦子」とあるのは宇野明伎子の誤りである。
(六) 第六項(賞罰委員会までの経過)のうち、武甕留次郎が原告の人事課長であつた八田猛夫に対し賭博をしたことを否定し、組合側の賞罰委員であつた田矢和生に同趣旨の弁明をしたことは否認し、その余の事実は認める。
(七) 第七項(賞罰委員会および懲戒理由)及び第八項(会社のバス部門の廃止)は、全部認める。
二、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分と不当労働行為の不成立
(一) 懲戒処分の理由とこの点に関する本件命令における事実の誤認
1 原告が武甕留次郎を前記のような懲戒処分に付したのは、同人に次のような事由があつたことによるものである。
(1) 昭和三一年二月頃しばしば原告の西七条観光バス車庫内において同僚の松本利一、岸田参二、北義男、奥村彦一、浅田勝治及び高城喜代一らと多額の現金を賭けて賭博をしたこと。
(2) 昭和三一年一〇月下旬から一一月中旬にかけて行われた米国RKO映画会社のロケーシヨンの仕事に原告よりバス運転手として派遣されていた間において、(イ)ロケーシヨン先で待時間中に同僚の運転士松本秀一及び高城喜代一、撮影隊のスタツフ並びに他社の運転手らと共に賭博をしたほか、(ロ)同乗のガイドに対し車の掃除を強要したり、RKO映画会社から支給される弁当を余分に貰つてくるように強要したこと。
(3) 昭和三一年一二月頃原告の京都駅前営業所において松本秀一が飲酒の上同僚に暴行を加えた際にこれを制止すると称して松本秀一の顔面を殴打して負傷させ、同営業所のハイヤー営業に支障を与えたこと。
(4) 勤務時間中にしばしばパチンコあるいは入浴をして職務を放棄したこと。
(5) 昭和三二年二月一三日に行われた改選当時まで組合の職場委員であつたところ、右改選にあたつて再選されず、代つて岸田参二が選出されたについて、六期生のガイドの不協力の結果であると考え、同月一五日米国ワーナー・ブラザース映画会社のロケーシヨンの仕事でバスの運転に従事した際のことであるが、その朝ロケ隊を迎えに行く途上で同乗の六期生ガイドの武田陽子に対し、これから六期生のガイドと一緒に仕事をするときには一切手心を加えないで厳格に指導にあたることにすると申向け、更に京都御所での待時間中に同行した六期生ガイドの大前公子、武田陽子及び宇野明伎子に対し、高城喜代一らと共にこもごも、今後六期生ガイドとは一切協力せず、仕事の妨害も辞さない旨の言辞を吐き、六期生ガイドの間に深刻な不安と恐怖感をみなぎらせたこと。
(6) 昭和三二年三月二日原告の京都駅前車庫においてガイド達に向つて、同人らの上司に対する密告のため解雇同然の宣告を受けたといつてガイド達を脅迫したこと。
(7) 昭和三二年三月三日六期生ガイドの吉岡正子が乗務していたバスに乗込み、その運転士に対し、六期生ガイドの密告のため退社の勧告を受けたが、密告した者がはつきりしたらどうするか見ていれば分かる。この話もすぐ会社に知らされるだろうが、腕にかけても戦うつもりである、などと話しかけ暗に吉岡正子を脅迫したこと。
2 武甕留次郎に対する懲戒処分の決定にあたつては、同人の次のような行為が情状として考慮された。
(1) 昭和三一年五月二二日その運転するバスで京都駅に団体客を送つた際、同乗したガイド数名が用務を終えた後原告より駅構内食堂で軽夕食の振舞いを受け、武甕留次郎のために夕食の包みを持つて同人の待機するバスに引帰したところ、帰車が遅いといつて立腹し、右の包みを投出して大声でわめき散らし、ガイドを畏怖させた。
(2) 昭和三一年度の運転競技会への出場選手の選出にあたり、自分に相談がなかつたとして厭味をいつたため、これに耐えられず選手達が出場を辞退したことがあつた。
(3) 原告の営業部員牛尾勉が岡島課長に自分に不利な報告をしたものと感違いして憤慨した松本秀一が昭和三一年六月八日牛尾勉に対して暴言の末暴力行為に及ぼうとした場所に居合わせ、ネクタイを外して松本秀一に加勢する気勢を示したところを、瀬尾係長に制止されたことがあつた。
(4) 原告の従業員がその行動について相談をもちかけなかつたときには、その者に対して悪質な中傷を加えるのを常としたのみならず、同僚の運転士がしばしば岡島課長のところへ行くと告げ口をするためであると考えてその者を圧迫し排斥する等のことがあつたので、職場の変更を希望する者も出た程であつた。
3 前記1において述べた武甕留次郎に対する懲戒処分の直接の事由となつた同人の行為のうち、賭博は、勤務時間中に常習的に行われ、しかも顧客その他の部外者を交えたものであつたにおいては、これが重大な職場秩序違反行為であることは多言を要しないところであり、その他の行為も、原告の観光バス部門の従業員について組合の要望に基き昭和三一年七月から、予想される各種の困難を冒して八時間労働制が実施されるに伴い、右部門の従業員の服務規律を従前より厳格化すべきことが原告と組合との間で確認され、原告の職制及び組合の幹部を通じて当該従業員全部にその旨が周知徹底されていた状況の下におけるものとしては、重大な職場規律違反であるといわなければならない。
かくして原告は、右のような武甕留次郎の行為にかんがみ、かつ、前記2に掲げた情状を斟酌して、同人を懲戒処分に付するのが相当であると判断した賞罰委員会の答申をそのまま採択して、武甕留次郎に対し前述のような懲戒処分を科したのである。
このように原告が武甕留次郎を懲戒処分に付したのは、同人に叙上のような職場の秩序及び規律に違反する行為があつたことを専らの理由とするものであつたのに、被告が本件命令においてこれを否定して、右懲戒処分をもつて不当労働行為にあたるものと認定したのは、重大な事実の誤認を犯したものというべきである。
(二) 不当労働行為意思の不存在とこの点に関する本件命令における法律上の判断の誤り
原告の武甕留次郎に対する懲戒処分は、原告からその案件を付議された賞罰委員会の全員一致の答申に基いて行われたものである。ところで賞罰委員会が、被告の認定のように、制度的には単なる諮問機関であるにしても、その答申は、慣行上、原告がその従業員に対して懲戒権を発動するかどうかあるいはどのような懲戒処分を科するかを決定するについて原告を拘束して来たのであるから、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分について不当労働行為意思の存在を肯定するためには、賞罰委員会自体についてそれが探究されなければならない。ところで原告が武甕留次郎に対して懲戒処分を科したについて、たとえ被告認定のように岡島課長に不当労働行為意思があつたとしても、右懲戒処分は前記のように原告による懲戒権の行使につき前述の如き権限を有する賞罰委員会の、しかも全員一致の答申どおりに行われたものであるから、賞罰委員会の答申が不当労働行為意思に基いて成立したものでない限り、岡島課長の右意思と武甕留次郎に対する原告の懲戒処分との間の因果関係は、その中間に賞罰委員会の答申が介在することによつて中断され、従つて右懲戒処分を原告の不当労働行為に問擬することはできない筋合なのである。
しかるに被告は、原告の提出した右の如き趣旨の主張を排斥して、賞罰委員会の答申がどのような見解に立つてなされたかにかかわりなく、武甕留次郎に対する原告の懲戒処分について、原告の職制であり、殊に武甕留次郎の所属した観光バス部門の最高責任者たる岡島課長に不当労働行為意思の存したことが認められる以上、右懲戒処分によつて原告の不当労働行為が成立すると解したのであるが、かかる判断は法理上誤りであるといわなければならない。
なお、甚だ遺憾なことであるが、武甕留次郎及び松本秀一が原告から懲戒処分を受けたについて、京都府地方労働委員会に既述のとおり救済の申立をするにあたり、同委員会の担当職員であつた伴埜省三が右両名に対し労働委員会と裁判所との権限、機能等の差異を説明した上、申立人らに不利なことはあくまでも秘匿し通し、有利なことばかりいえばよい旨の助言をしたことがあり、このことが京都府地方労働委員会及び被告の審問手続において、事案の真相の究明を著しく妨げ、本件命令に前叙のような違法性をもたらした有力な一因となつているのである。
(三) 結論
叙上のとおりであるから、本件命令に違法の点はないという被告の主張は失当であり、本件命令は取消を免れないものである。
第五、本件命令に瑕疵がないことに関する被告の主張の補足(第四に掲げる原告の反論に対する反駁)
一、本件訴訟において原告の主張する武甕留次郎の懲戒処分の理由は、当該処分当時実際に問題にされたものに比較して遥かにその範囲が拡張されている。以下その点を指摘しながら、原告の右処分理由に関する主張の正当でないゆえんを明らかにする。
原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の当時その理由としたところは、関係書類(例えば本件における乙第三号証の(二)・甲第三四号証―賞罰委員会答申書)に徴するに、「昭和三二年一月勤務時間中に無断外出をしてパチンコに興じたり入浴したりして職場を放棄し、執務上の指示監督に従わないで職場秩序を紊乱した外、一部従業員を煽動して正常な服務を妨害したり、RKO撮影隊日本ロケーシヨンの仕事の最中常習的に賭博行為を行つて社則に違反し、風紀を乱した」というにあつたことが明らかである。これと原告が本件訴訟において武甕留次郎に対する懲戒処分の理由として主張しているところ、即ち前出第四の二(一)1において(1)ないし(7)として掲げた事由とを比照してその間の異同を検討すると共に、武甕留次郎に原告の主張するような懲戒処分理由に該当する行為のなかつたことを説明する。
(1) 原告が本件訴訟において自ら明らかにしているところによれば(原告の提出にかかる甲第三三号証中の「武甕留次郎の件」と題する書面参照。但し、この書面が右甲号証中「賞罰委員会決定書」の原本の作成当時からこれに添付されていたものとは考えられないが、その点はしばらく問わないこととする。)、武甕留次郎に対する懲戒について、処分当時問題とされた同人の賭博行為は、RKO映画会社のロケーシヨン隊に参加していた折柄昭和三一年秋奈良において行われたものとして限定されていたのに、前記ロケーシヨン中における武甕留次郎の賭博行為を、原告は、本件訴訟においては、昭和三一年一〇月下旬から一一月中旬にかけてのものとしつつ、その行われた場所も特定せず(前出第四の二(一)1中(2)(イ)参照)、上記の頃武甕留次郎が行つたと称する賭博行為についてその範囲をことさら不当に拡大しているのである。加うるに原告は、賞罰委員会において審議されたことさえないのに、本件訴訟になつて始めて武甕留次郎の西七条車庫内における賭博行為なるもの(前記第四の二(一)1中(1)に記載)を同人に対する懲戒処分の事由の一つにあげている。叙上のような原告の態度からするときは、原告は、武隠留次郎の懲戒理由の焦点が同人の賭博常習性にあることを印象づけ、右懲戒処分の不当労働行為該当性を極力隠蔽しようとしている形跡が濃厚であるが、それはともかくとしても、武甕留次郎に果して原告のいう如く、「賭博」と名付けて問責するに値するような反社会的性格のある行為があつたこと自体、きわめて疑わしいのみならず、かりに武甕留次郎のなんらかの行為に基いて同人に賭博の嫌疑がもたれたとしても、当該行為の実体は、被告が本件命令において明らかにしたとおり反社会性を帯びるものとはいえない程度の「賭けごと」であつたに止まるのである。
そもそも原告は、武甕留次郎に対して懲戒処分を科した当時においてすらも、当該処分の一事由とされた、RKO映画会社のロケーシヨン先における同人の賭博行為なるものについて的確な証拠資料を有しておらず、従つてその実態について具体的に殆ど何ものをも把握していなかつたのであり、更に西七条車庫における武甕留次郎の賭博行為なるものに至つては、既にその当時岡島課長において関係容疑者の氏名さえも調査することなく、内田班長に注意を与えさせることによつて問題を処理ずみとしたのである。
このような事情からみても、原告が武甕留次郎の賭博行為を同人に対する懲戒処分の重要な事由として主張しているのは単なる口実にすぎないものといわなければならない。
(2) 勤務時間中にしばしばパチンコあるいは入浴をして職務を放棄したという前記第四の二(一)1中(4)の事由は、懲戒処分当時実際にその理由とされたものとして前述したところのうち、「昭和三二年一月勤務時間中に無断外出をしてパチンコに興じたり入浴したりして職場を放棄した」といわれているのに符合するものと考えられるが、この点に関して武甕留次郎に懲戒の事由として取上げられる程の行為がなかつたことは、本件命令において述べたとおりである。
(3) 前記第四の二(一)1中右において言及した以外の諸事由は、前掲処分当時の理由にいわゆる「一部従業員を煽動して正常な服務を妨害した」ということを支持するための事実として主張されたものと解されるし、また武甕留次郎に対する懲戒処分の決定にあたつて情状として考慮されたと原告の称する各種行為即ち前出第四の二(一)2中(1)ないし(4)として挙げられたものも、もしそのような行為が実在して武甕留次郎に対する懲戒について斟酌されたことがあつたとすれば、主として懲戒処分理由中前示の点に関連してなされたものと思われるのであるが、原告の人事課長八田猛夫が被告の審問手続において証人として供述したところによると、上記処分理由に関しては専らいわゆる「御所事件」即ち、前記第四の二(一)1中(5)の事実を考量したというのであるから、右以外に亘る武甕留次郎の行為を同人に対する懲戒処分の事由として挙示する原告の主張は明らかに不当であり、しかもいわゆる「御所事件」なるものについては、本件命令においても判示したとおり、もしその責任者があるとすれば高城喜代一であり、この事件につき武甕留次郎を問責する余地はないのである。
(4) なお、前記第四の二(一)1中(2)の(ロ)、(3)、(6)、(7)及び同上2掲記の各事実は、武甕留次郎に対して懲戒処分を科するについて賞罰委員会において審議されたこともなく、そもそもその存在自体がきわめてあいまいなものであり、よし万一実在したとしても、いずれもあえて論ずるに足りない軽微な事柄であつて、懲戒処分の事由又は情状として取上げるには値しない程度のものなのである。
二、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分が不当労働行為を構成することについての論拠は、本件命令で説明したところに尽きるのであるが、なおそれ以外に、叙上の如く原告は本件訴訟において武甕留次郎に対する懲戒の理由を、当該処分当時には全く問題にされるところのなかつた事実にまで拡張して構成するに至つたのであり、しかもそれとてもすべて根拠のきわめて薄弱なものであることは既に明白にしたとおりであり、かような点からしても、原告が武甕留次郎に関する懲戒処分の理由について全然確信をもつていなかつたことを窺うに足りるし、更に本件命令においては十分明瞭にされていないうらみがあるけれども、昭和三二年二月の職場委員の改選にあたり、武甕留次郎が落選して岸田参二が選出されたのは、事実岡島課長及び土川指導員らの策動の結果であつたのである。
上述のような諸事情をも考合わせれば、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分は、岡島課長がその労務管理の不手際を批判、追及する等の組合活動の故にかねて嫌悪していた武甕留次郎を偶々起つた前述のいわゆる「御所事件」を契機に、職場から排除する企図の下に、これを実行に移したものであつて、原告の標榜する懲戒の事由の如きは当該処分を行つた真意を蔽いかくさんがためのものにすぎないと断定せざるを得ないのである。
その他原告は、武甕留次郎に対して原告が懲戒処分を科するに際しては賞罰委員会の答申が介在したことを根拠として、原告について不当労働行為意思の存在が否定されるべきであると主張する。もしかりに原告がその従業員を懲戒するにあたつて、その主張のように賞罰委員会の答申に拘束される慣行が存するとしても、懲戒事案に関する賞罰委員会の審査は原告の発議により、その提示にかかる理由についてなされるのであり、もとより経営者側の委員も委員会の審査及び答申の決定に参加するのであり、しかもその答申に基くとしても懲戒処分そのものはあくまで懲戒権者である原告自身が行うものであることには、いささかの変りもないのである。ところで原告の武甕留次郎に対する懲戒処分に際しては、同人の所属した観光バス部門の最高責任者であつた岡島課長に前述のとおり明白な不当労働行為の意図が認められる以上、原告の右処分に関する不当労働行為意思を肯定するのにいささかの妨げもない筋合であり、たとえ当該処分の行われるべきことを賞罰委員会が答申するについて、労働組合側の委員も同意を与えたものであつたとしても、それによつて原告の武甕留次郎に対する懲戒処分とこれに関する岡島課長の上述のような意図との間の因果関係が中断され、右処分の不当労働行為該当性が直ちに阻却される訳のものでないことは当然である。
第六、証拠関係<省略>
理由
第一、被告による本件命令の発出
被告が別紙命令書のような内容の本件命令を発し、その命令書の写が昭和三三年一二月一〇日原告に送達されるに至つた経過は、原告主張のとおりに当事者間に争がない。
第二、本件命令の適否
原告は、被告が本件命令において原告の武甕留次郎に対する懲戒処分を不当労働行為にあたるものと判断したのは、事実の認定及び法律上の判断を誤つたことに基くものであつて、本件命令はその点において違法であると主張する。
そこで本件命令における被告の事実認定及び判断が果して正当なものであるかどうかについて、以下検討することとする。
一、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分の理由
(一) 原告によつて取上げられた武甕留次郎の行為にかかる具体的事実
被告が別紙命令書の理由中第一の七において認定したように、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分が賞罰委員会の答申に基いて行われたものであつて、その理由が、同人は勤務時間中であるにかかわらず無断外出をしてパチンコに興じたり入浴したりして職務を放棄し、就務上の指揮監督に従わず、職場秩序を紊乱し、加えて一部従業員を煽動して正常な服務を妨害したりRKO撮影隊日本ロケーシヨンの仕事の最中常習的に賭博行為を行つたりして、社則に違反し風紀を乱した、というにあつたことは、当事者間に争がなく、原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の一の(一)及び(二)並びに証人粂田禎雄の証言によれば、上述の懲戒処分理由は、賞罰委員会がその答申において示したそのままのものであつたことが認められる。
ところで武甕留次郎に対する懲戒処分の理由が右のとおりに定められたについて、果してどのような具体的事実が取上げられたかについては、本件当事者間において争があるので、賞罰委員会の審議を経て原告により懲戒処分の理由を構成すべきものとされた具体的事実がどのようなものであつたかについて考えてみる。
成立に争のない乙第一号証の一一の(二)及び(三)、乙第一号証の一六、乙第一号証の一八、乙第一号証の二〇、乙第一号証の二八の(二)、乙第一号証の二九の(二)、乙第三号証の二二、乙第四号証の四、乙第五号証の一、二、乙第六号証、乙第七号証の二、四と、乙第八号証、原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の六並びに証人粂田禎雄の証言を綜合すると、左のような事実が認められる。
武甕留次郎に関する懲戒事案について開催された賞罰委員会においては、原告の人事課長八田猛夫から書面(乙第三号証の六と同一内容のもの)に基きそれに記載された事実が懲戒処分の主たる事由として報告され、討議の対象となつたのであるが、右書面に記載された事実は武甕留次郎が(イ)昭和三一年一二月頃RKO映画会社関係の仕事で奈良に行つき際に賭博をし、ガイドに対して掃除や、RKO映画会社から支給される弁当を余分に貰つてくることを強要し、(ロ)同年一二月頃原告の京都駅前営業所において松本秀一運転士が飲酒の上同僚に暴行を加えたときこれを制止するのに暴力を用い、松本運転士の顔面に負傷させて同営業所におけるハイヤー営業を妨害するかのような行為に及び、(ハ)昭和三二年一月頃アメリカ映画の撮影隊関係の仕事にたずさわつている間に無断で外出して職務を放棄し、(ニ)同年二月一五日ワーナー・ブラザース映画会社関係の仕事に従事した際京都御所において高城喜代一運転士と共に、組合の職場委員の選挙にあたり武甕留次郎に投票しなかつたといつてガイドを脅迫し、(ホ)同年三月二日原告の京都駅前車庫において高城喜代一や松本秀一のことなどについて課長に告げ口をしたとしてガイドを脅迫し、(ヘ)同月三日京都市伏見円内の自宅附近において、帰庫中のバスをとめて乗込み、自分達のことを原告に報告したと称してガイドを脅迫したというにあり、この点に関する八田課長の報告、説明は、賞罰委員会によつて諒承された。その他同委員会の席上で補足的に原告の観光バス課長岡島邦治からその作成にかかるメモ(乙第三号証の二二)に基き前掲以外の事実が主に情状として報告された(但し、どのような事実が報告されたかは暫く措くこととする)。
前掲乙第一号証の一六、乙第四号証の四及び乙第五号証の二には、前述のとおり八田課長が賞罰委員会において報告、説明の資料とした書面が予め組合側に配布もされず、また委員会の席上で配布されたこともなかつた旨の記載があるが、かりにそのとおりであるとしても、右認定に影響するものでないことは明らかである。
さてここで、原告が本件訴訟において武甕留次郎に対する懲戒処分の事由として主張する諸事実中、前示(イ)ないし(ヘ)の各事実と照合して果してその中に包容されるかどうかにつき疑いの余地なしとしないものにつき検討を加えてみることとする。
前出乙第三号証の六の記載のみに照すときには、武甕留次郎に対する懲戒処分事由の一として賞罰委員会で問題とされた同人の賭博行為は、被告の主張する如く、昭和三一年一二月頃奈良におけるものに限定されていたような観がなくもないのであるが、既述のとおり賞罰委員会の答申にかかる武甕留次郎に対する懲戒処分の理由中には「RKO撮影隊日本ロケーシヨンの仕事の最中常習的に賭博を行つた」ということが挙げられていたのみならず、前掲乙第五号証の一、乙第七号証の二、四、及び乙第八号証並びに証人粂田禎雄の証言によると、原告が武甕留次郎に関する懲戒事案を賞罰委員会に付議するについて、その処分の理由を構成すべき事実に関する最も主要な資料としたのは、賞罰委員会の開催前に八田人事課長が六期生ガイドについて行つた事情聴取及びその際当該ガイド達が述べたことを要約して作成の上八田課長に提出した手記(乙第三号証の一一ないし一八はその写にあたる。なお、右のような事情の聴取、手記の作成提出の行われたいきさつについては、別紙命令書の理由中第一の五及び六に記載されているとおりに当事者間に争がない。但し、この判決の事実摘示欄の第四の一中当該個所において原告の争う点として指摘したところを除く。また八田課長が事情を聴取して手記を提出させた六期生ガイドの数は九名(別紙命令書の理由中第一の六参照)であることに当事者間争がないのであるが、成立に争いのない乙第四号証の一、二及び乙第九号証の一ないし三と本件弁論の全趣旨によると、乙第三号証の一一ないし一八の原本は、六期生ガイドの久保田久美子外七名が作成して提出したものであつて、右に挙げた九名というのと員数において一名の差が存するけれども、この点はしばらく問わないこととする。)であることが認められ、乙第三号証の一一ないし一八を通読すると、RKO映画会社のロケーシヨンの仕事に従事していた当時における武甕留次郎の賭博行為が昭和三一年一二月頃奈良で行われたもの以外になかつたものという趣旨に解せられる記載は何処にも見出されず、むしろ武甕留次郎は右の頃相当頻繁に賭博をしていたことを窺わせるに十分な記述が随所に存在するのである。叙上のような諸般の情況からするときは、原告としては、武甕留次郎がRKO映画会社のロケーシヨン隊に加わつていた間に賭博を反覆累行したものとして同人にその常習性があると認め、当該事実を同人に対する懲戒処分の一事由に挙げたものと認めるのが相当である。
原告は更に、昭和三一年二月頃における原告の西七条観光バス車庫内での武甕留次郎の賭博行為を同人に対する懲戒処分の独立の事由として主張しているけれども、証人粂田禎雄の証言によると、右の事由は賞罰委員会において情状の一として報告されたに止まることが認められるし、上述したところの賞罰委員会からの答申にかかる武甕留次郎に対する懲戒処分理由に徴しても、原告の右主張の如き賭博行為がその中に包含せしめられていたものとは解されないのであつて、他に原告の右主張を肯定するに足りる証拠は見当らない。
最後に武甕留次郎が勤務時間中にしばしばパチンコあるいは入浴をして職務を放棄したという、原告主張の懲戒処分事由(この判決の事実摘示欄の第四の二(一)1中(4)に記載する事実)については、前述のとおり八田人事課長の賞罰委員会における報告の資料となつた書面に記載された事実として先に挙示したもののうち(ハ)の事実がこれに該当するものと解されるし、既述のとおり賞罰委員会の答申の掲げる懲戒処分理由においても、「武甕留次郎が勤務時間中であるのにかかわらず無断外出をしてパチンコに興じたり入浴をしたりして職務を放棄した」との事実が明示されているところからするときは、前示原告の主張にかかる事由もまた賞罰委員会において武甕留次郎に対する懲戒処分の一事由として審査された上答申に取入れられたものとみるのが相当である。
しこうして原告が賞罰委員会に提議した武甕留次郎に対する懲戒処分の理由がその具体的事実と共にそのまま委員会において是認され、その結果としての答申どおりの理由により原告が武甕留次郎に対して懲戒処分を科したことは、上来判示したところよりして自ら明らかなところであり、右にみたような武甕留次郎の懲戒処分事由としての具体的事実を比照すると、原告が本件訴訟において主張している懲戒処分事由即ちこの判決の事実摘示欄中第四の二(一)1(1)ないし(7)のうち、(1)以外のものが、武甕留次郎に対する懲戒処分につき、原告が少くとも外見上その直接の理由とした具体的事実であつたものと認めて差しつかえないのである(ここで「少くとも外見上」という表現を用いたのは、右のような事由が原告の武甕留次郎に対する懲戒処分における決定的な理由であつたのか、それともそれは原告の不当労働行為意思を隠蔽するための単なる口実にすぎなかつたものであるかという本件における争点に関する判断を後に控えていることによるのである。)。
(二) 前叙のような具体的事実を懲戒の事由として問題とするについて当時原告が有していた資料
次に原告が武甕留次郎を懲戒処分に付するについて、同人に上述のようなその所為にかかる具体的事実があつたものと認定した上、これらの事実をもつて当該懲戒処分の理由(一応情状の点を除く。)を組成したのは、一体どのような資料に基いたものであつたかを考えてみる。
この関係の資料として原告により最も重要視されたものが六期生ガイドの八田人事課長に対する供述とその要旨を記載した当該ガイド八名の手記(原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の一一ないし一八はその写である。)であつたことは、前述したとおりであるが、上掲乙第一号証の一八、二〇、二八の(二)、乙第五号証の一、乙第七号証の二及び成立に争のない乙第四号証の三、乙第一一号証の一と証人粂田禎雄の証言を綜合すると、原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の理由に関する具体的事実についての認定に供した資料としては、右に挙示した六期生ガイドの供述及び手記の外は、当時原告のガイド指導員であつた土川とよ子が右六期生ガイドから聞知したところに基いて記述の上、前示六期生ガイドの手記と大体同じ頃岡島観光バス課長に提出した手記(原本の存在及び成立に争のない乙第一号証の八ないし一〇はその写にあたる。)、昭和三二年二月二八日から同年三月七日までの間に五回にわたつて八田人事課長が武甕留次郎及び松本秀一(原告は、この両名に対して同時に懲戒の手続を進めた。)と面接した際における同人らの陳述及びその後同人らから原告に提出された「理由書」と題する書面(武甕留次郎の提出にかかるものの写にあたるのが、原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の三の(一)である。)並びに原告が武甕留次郎及び松本秀一と共に懲戒責任を追及する前に昭和三二年二月二七日事情聴取の末自発的退職を勧告したのに応じた高城喜代一の右の際における陳述(八田人事課長が上述のとおり武甕留次郎と松本秀一と面談したこと、その後右両名から前示のような書面が原告に提出されたこと及び高城喜代一が右述の如く原告から事情を聴取された上なされた勧告に従つて任意に退職したことは、別紙命令書の理由中第一の六に記載されているとおりに当事者間で争のないところである。)がその主なものであつたことが認められる。
そこで続いて原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の理由に関する具体的事実として取上げたところについて、当時果してどの程度の確信を抱いていたかを知るための手がかりとして前掲各資料が証拠としてどれ位の価値を有したものと考えられるべきかを、以下において考察してみることにする。
1 原告が最も有力な証拠資料とみた六期生ガイドの供述及び手記について(既述のとおり右手記は当該ガイドの供述の要旨を取りまとめたものであつて、かつ、前掲乙第七号証の二によれば、右の手記と供述とは、その主旨において異なるところはないことが認められるので、以下においては、専ら手記の記載内容を中心にして論述することとするが、左に説明するところは、もとよりそのまま前記ガイドの供述についてもあてはまる訳である。)
(1) 昭和三一年一〇月下旬から一一月中旬にかけてのRKO映画会社のロケーシヨンの際における賭博(事実摘示欄第四の二(一)1中(2)の(イ)に掲げる懲戒事由に関するもの
前掲乙第三号証の一一ないし一八により、六期生ガイドの手記のうち、ともかくもこの関係に触れているものとみられる部分を物色するに、乙第三号証の一一中に「昨年RKOの撮影の時に運転士(高城・松本秀)が66車の車でばくちをしていた」との記載、乙第三号証の一三中に「RKOの時いつもバクチして居られた事は事実である」との記載、乙第三号証の一四中に「昭和三一年秋RKO撮影の時バスの中でバクチをしていた(タケミカ、高城、松本秀)との記載、乙第三号証の一五中に「昨年十一月頃高城さんの車でRKOの仕事で八瀬へ行つた時松本秀さんと一緒にバクチをしておられた、ポリが来たら教えてくれよと云い乍ら一日中しておられた」、「奈良へ武みかさんとRKOの仕事、他の運転手さんと共にバクチ」との記載、乙第三号証の一六中に「高城さん自身の口よりRKOの時に“和歌山にてバクチをした”………と聞きました」との記載、乙第三号証の一七中に「昨年一二月RKO撮影の時に運転手(高城、松本秀、武みか)はバス内でバクチをしていた」、「バクチ行為は止め相もなく、ひんぱんになるばかりであつた。やつている人は決つて高城、松本秀、武みか氏であつた」との各記載、乙第三号証の一八中に「RKOの撮影隊の仕事の時は、いつも高城、武ミカ運転士は車内でバクチをされ、とても不快でした」との記載がある。
右に摘録したような手記の記載からは、当該六期生ガイドの知り得た「バクチ」と称するものがいかなる手段方法を用いたものであるか等、その実態が果してどのようなものであるかについて全然明らかにされるところがないのみならず、前示乙第三号証の一一、一三、一五(但し、前掲中前半のもの)及び一六中の記載に至つては、それ自体からは、武甕留次郎が当該賭博に加わつていたものかどうかさえ窺い知ることができないのである。たゞ前掲乙第九号証の二には、乙第三号証の一三の原本にあたる手記の作成者としての武村綾乃の供述として、右手記中前示摘録にかかる記述にいわゆるバクチには武甕留次郎が関与していた旨の記載がみられるけれども、右に続く陳述の記載全体を通覧するときは、右記述にいうように武甕留次郎が当該賭博の当事者であつたと断定することはきわめて疑わしいものと考えざるを得ないのである。その他武甕留次郎が上掲乙第三号証の一一、一三、一五及び一六に記載されている「バクチ」に関係したものと認めるに足りる証拠は見当らない。更に前掲乙第四号証の一及び二、第九号証の一ないし三並びに成立に争のない乙第一一号証の二に徴するに、乙第三号証の一三ないし一七の原本の作成者たる六期生ガイド(右書証番号の順に武村綾乃、大前公子、武田陽子、吉岡正子及び近藤小枝子)は、いずれも、本件に関する被告の審問手続中に証人として証言するところがあつたけれども、その中においても、同人らの右手記にいわゆる「バクチ」の実態についてなんらの解明をも加えることができず、ただいたずらに賭博とかバクチとかいう表現を用いているにすぎないのである。ところで右にその記載の一部を摘録した六期生ガイドの手記のうち、乙第三号証の一一及び一八の原本については、その余のものと異なり、作成者(弁論の全趣旨によると、乙第三号証の一一の原本は久保田久美子、同号証の一八の原本は横江成子の作成にかかるものであることが認められる。)自身からその意味内容等について聞きだす措置が、本件に関する手続の全過程を通じて遂に行われるに至らなかつたけれども、乙第三号証の一三ないし一七中前掲摘録部分の記載について上述したような経緯のあつたことにかんがみれば、乙第三号証の一一及び一八中の前掲記載に関しても事情は、特別のことのない以上大同小異と認めるのが相当である。
してみると前記手記の作成者である六期生ガイド八名がRKO映画会社のロケーシヨン関係の仕事中に行われた武甕留次郎の賭博又はバクチと称するものについて有していた認識は、そもそもその当初から、既述のように具体性に欠けることの多大な、漠然とした上掲の如き手記の記載内容以上に出ない程度のものであつたと考えざるを得ないのである。
叙上のような諸般の状況に照すと共に、殊に後述するとおり、武甕留次郎がその懲戒処分手続中原告に対し、いわゆる「あみだくじ」程度の賭けごとをしたことはあるけれども、それ以上に社会的非難を蒙るに値し、懲戒処分の事由として問題とされる程の賭博をしたことは絶対にない旨、強く弁解し続けて来た事実を合わせ考えるときは、先述のとおり六期生ガイド八名が原告の八田人事課長に対して武甕留次郎の賭博事犯として語つたところ及びこれを記載した手記は、すべてそれ自体の信憑力においてきわめてとぼしいものと認める外ないのである。
(2) 前出(1)記載の頃におけるガイドに対する掃除の強要その他(事実摘示欄第四の二(一)1中(2)の(ロ)に掲げる懲戒事由)に関するもの
前掲六期生ガイドの手記のうち、乙第三号証の一七における昨年の暮「RKO撮影のお仕事に行つていた時、撮影のお仕事はガイドにとつて余りにも気楽過ぎるといつて車のボデーみがきを過酷に要求された(武みか)」、「RKO映画社から下さるお弁当をもらいに行くのはガイドに決つているかの様に請求する(高城、武みか、かじ谷)。それも数だけもらつて来ると、余分にもらつて来る様に云われる」との記載と乙第三号証の一八における「RKOの仕事はガイドにとつて“楽過ぎる”と云う口実で車体みがきをさせられ、みがき方が悪いとひどい皮肉で文句を云われ情ない思いをしました(奈良駅前にて、武ミカ運転士)」、「RKOから頂く昼食の数を「ごまかせ」と云われた(中略)事はいつものことでした」との記載がこの点に関連のあるものであるけれども、右の記載だけから(この場合、前掲乙第四号証の一に録取されている近藤小枝子即ち乙第三号証の一七の原本にあたる手記を作成した同人の証言中には、右手記の中上掲部分に言及したものは見当らないし、乙第三号証の一八の原本については、先にも明らかにしたとおり、本件に関する全手続中に作成者である横江成子を喚問するところがなかつたことを想起すべきである。)、武甕留次郎の当該行為をもつて、懲戒処分の事由として取上げなければならない程の、ガイドに対する強要にあたるものと、直ちに断定し去ることは、虚心にみて大いに躊躇せざるを得ないのである。
(3) 京都駅前営業所における松本秀一に対する暴行傷害(事実摘示欄第四の二(一)1中(3)に掲げる懲戒事由)に関するもの
前掲六期生ガイドの全手記を通読してみても、この点について記述したところは一個所も発見できない。
なお、ここで付言するに、成立に争のない乙第一号証の二三によると、岡島課長は、昭和三一年一一月中旬頃原告の京都駅前営業所において終業時刻後に松本秀一が同僚の運転手梶谷平一と飲酒中電話にかかつているところを梶谷平一にからかわれたことから同人と喧嘩を始めたのを、武甕留次郎が仲裁に入つて止めようとした際に、松本秀一がいうことをきかないといつて同人を殴りつけた事件があつたということを現場に居合せたという他の運転手から当時聞知して、八田人事課長にその旨報告しておいたことが認められるけれども、右の報告からしては、松本秀一がそのとき武甕留次郎の暴行によつて負傷したこと及び右事件のため当時営業所におけるハイヤーの営業に支障が生じたということは明らかでない。
(4) 勤務時間中のパチンコ又は入浴による職務放棄(事実摘示欄第四の二(一)1中(4)に掲げる懲戒事由)に関するもの
この点に関係がありそうに思われる記載を前掲六期生ガイドの手記から強いて拾上げれば、乙第三号証の一二中の「一月一八日六五一でW・Bの仕事に行く。知恩院古門前での撮影中、運転士は仕事中にもかかわらず夕方風呂へ行つた」との記載を挙げ得るだけである。
しかしながらこの記載自体によつては、それが武甕留次郎の行為を指しているかどうかを確めるに由がなく、弁論の全趣旨によれば、右記載を含む乙第三号証の一二の原本にあたる手記の作成者は宇野明伎子であることが認められるが、同人もまた本件に関する全手続を通じて証人として取調べられたことがないので、その供述によつて、果して前示手記中の記載にいわゆる入浴者が武甕留次郎であつたかどうかを明らかにする途もないのである。さすれば右記載は、武甕留次郎が勤務時間中入浴したことによりその職務を放棄したとの事実を認定する証拠としては、きわめて価値の薄いものと評すべきである。
(5) 京都御所におけるガイドに対する脅迫(事実摘示欄第四の二(一)1中(5)に掲げる懲戒事由)に関するもの
別紙命令書の理由中第一の五において被告が認定したところで原告の争わない事実によると、いわゆる御所事件の当日(昭和三二年二月一五日)その現場(京都御所広場)へ武甕留次郎らと同行した六期生ガイド三名のうち二人は大前公子と武田陽子であり、原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の三七と前掲乙第七号証の四によると、残り一名のガイドは宇野明伎子であつたことが認められるので、まず右三名の作成にかかる手記の中に前記事件にかかわるものとしてどのような記載が存するかについて調べてみる。
先に説明したとおり宇野明伎子の作成にかかる手記の写である乙第三号証の一二には、当時バスの車内で高城喜代一と武甕留次郎から、職場委員の選挙において六期生ガイドが武甕留次郎に投票しなかつたことは、当該投票の筆跡からみて明らかであるとして、かくては運転士全員と六期生を除いたガイドは六期生ガイドと対決する外なく、六期生ガイドとは一切口をきかないから、六期生は勝手に仕事をせよ、といわれ、脅迫を受けた旨の記載が、既述のとおり大前公子の作成にかかる手記の写である乙第三号証の一四には、高城喜代一から当日前同旨の外、六期生ガイドが観光バスに乗務しているときには、徐行すべき場所でもスピードを出したり、変な所で徐行したり、車の掃除についても厳しく取締るなど、運転士としてはあらゆる部面で六期生ガイドを意地悪く取扱うから、そのつもりでいるようになどといわれ、武甕留次郎からも、「今迄六期生の世話をして来たが、これからは知らない。勝手にするがいゝ。六期生の団結もいいけれど、それでやつていけるものならやればよい」といわれ、こもごも脅迫された旨の記載が武田陽子の作成にかかる手記の写であることが前述のとおりである乙第三号証の一五には、高城喜代一から、大前公子の前記手記中に高城喜代一による脅迫として記載されているところとほゞ同旨の脅迫を受けたと述べているのに続いて、武甕留次郎からは、職場委員の選挙について六期生ガイドにあやつられたといわれた旨の記載がある。
次に前示三名以外の六期生ガイドの手記について検するに、叙上の如く久保田久美子作成にかかる原本の写である乙第三号証の一一には、大前公子作成の手記(乙第三号証の一四の原本)中の記述として右に掲げたもののうち、高城喜代一にかかわる脅迫と同様のことがその際武甕留次郎によつても行われたことを、当日伝聞した旨の記載が、更に上述のように近藤小枝子作成にかかる手記の写である乙第三号証の一七には、昭和三二年二月一五日同期のガイド三名が仕事先で、高城喜代一より、六期生ガイドが自分達の意志に従わなかつたので、運転手全部でこれと対決することにしたといわれたという話を、当日そのうちの一人から電話で聞いた旨の記載が、最後に、前述のとおり横江成子の作成した手記の写である乙第三号証の一八には、職場委員の選挙において六期生ガイドは正しく投票をしたのに、そのことについて文句をいわれた同期生が三人あり、今後は恐ろしくてそのような文句をいつた運転手の車には乗せてもらうことができない気持である旨の記載がある。
叙上各手記の全体を通じていえることは、いわゆる御所事件に高城喜代一と武甕留次郎の両運転士が関与していたものとしている点に関する限りにおいて各人の記述が符合しているということであるが、当該事件において右両名の果した役割の軽重については、上掲各手記の記載間にかなりの隔りがみられるのである。即ち、宇野明伎子及び久保田久美子の各手記(乙第三号証の一二及び一一の各原本)中の前示記載の如く、六期生ガイドに対する脅迫の程度、内容等に関して高城喜代一と武甕留次郎に対して特に別異の取扱をしていないと思われるもの、大前公子及び武田陽子の各手記(乙第三号証の一四及び一五の各原本)中の前掲記載のように、高城喜代一を当該事件の主謀者とみて、武甕留次郎の同事件における地位をそれ程重大視していないかの如きもの、その他近藤小枝子の手記(乙第三号証の一七の原本)中の記載のとおり、専ら高城喜代一の言動にのみ論及しているに過ぎない等区々に別れ、更に横江成子の手記(乙第三号証の一八の原本)中上掲記載に至つては、そこに挙げられている文句が運転手中の何人によつて言われたかを少しも明らかにしていないのである。
ところでいわゆる御所事件なるものは、当事者間に争のないところによれば、別紙命令書の理由中第一の五に記載されている如く、昭和三二年二月一三日に行われた組合の職場委員の選挙において、それまで当該委員であつた武甕留次郎に代つて岸田参二運転士が当選したことに端を発するものであつて、右選挙に先立つて武甕留次郎の属する職場において次期の職場委員に誰を推すかを決めるいわゆる予備選挙が行われた際に、武甕留次郎から再選辞退の申出があり、岸田参二をその後任に推選することに僅少の投票の差で決定したのであるが、運転士及び古参ガイドの一部の者は武甕留次郎の再選を実現しようとして努力したにもかかわらず成功しなかつたところから、右運動に協力しなかつたという理由で六期生ガイドが脅迫されたというのが、当該事件の概要である。そして前出乙第四号証の一及び二並びに乙第九号証の一によると職場委員に武甕留次郎を再選するよう予備選挙後六期生ガイドに働きかけた中心人物は高城喜代一であつたことが認められるのである。
叙上のような実情にかんがみるときは、武甕留次郎の職場委員への再選運動が失敗に帰したことについて、その運動の中心に立つていた高城喜代一が六期生ガイドを非難攻撃したということはあり得ないことではないと、一応誰にも考えられそうなところであるが、一旦事前に自ら立候補辞退の意思を表明した武甕留次郎が高城喜代一らの支援にもかかわらず落選したことのために、六期生ガイドの不実を責める余り同人らに対して脅迫に及んだと判断するのは、いささか常識外れのように思われるのである。のみならず上述のような御所事件の発生原因に顧みると、前掲手記中に記載されている高城喜代一及び武甕留次郎の六期生ガイドに対するいやがらせの言動を直ちに脅迫と断定し去ることは、性急のそしりを免れないうらみがあるものというべきである。
(6) 京都駅前車庫におけるガイドに対する脅迫及びガイド吉岡正子の乗務中のバスの車内における同人に対する脅迫(事実摘示欄第四の二(一)1中(6)及び(7)に掲げる懲戒事由)に関するもの
右に掲げる懲戒事由は、原告の主張するところによれば、いずれも昭和三二年三月中の出来事であるとされているのであるが、別紙命令書の理由中第一の六の冒頭に記載されているとおりに当事者間争ないところでは、八田人事課長から事情を聴取された六期生ガイドがその際の陳述を手記にしてこれを原告に提出したのは前記出来事の日時とされている昭和三二年三月より前の同年二月二三日ないしは二四日である。そうだとすれば、右に述べた手記の中においては、前示両度に亘る武甕留次郎による脅迫事件なるものに関して記述がなされるべきはずはなく、当然のことながら、既述のとおり右各手記の写である乙第三号証の一一ないし一八中に右事件に言及した記載は一箇所も発見することができない。
2 ガイド指導員土川とよ子の手記について
前掲乙第三号証の八ないし一〇によると、土川指導員の手記は、原告の主張する武甕留次郎に関する懲戒処分の事由中京都駅前車庫におけるガイドに対する脅迫事件と六期生ガイド吉岡正子に対するそのバス内における脅迫事件(事実摘示欄第四の二(一)1中(6)及び(7)に掲げる懲戒事由)について記述したものであることが明らかであるけれども、その記載を検するに、それだけで武甕留次郎の当時の言動を脅迫行為と断定するに足りる程明快なものではない。即ち、右各手記を通読するに当時松本秀一及び高城喜代一ら同僚運転士と共に原告から懲戒処分を受けるのではないかということを察知していた武甕留次郎が、このような事態を誘発したのは六期生ガイドであると考えて、ガイド達に対して相当意地悪く、しかもかなり強い言動をもつて、当り散らしたことは、これを看取するに十分であるとはいえ、前者の事件の場合において、武甕留次郎は六期生ガイド達の告げ口などによつてたやすく解雇されるものではないといつて気勢を示し、後者の事件の場合において、武甕留次郎は、六期生ガイドの告げ口のために解雇の危険にさえさらされるに至つているが、その当人を確知できたらどうするかみていれば分るとか、このような話をしていることもすぐ会社(原告)側に聞えるであろうとかいうことを、運転士に向つて同乗のガイドに聞えよがしに話しかけたというのであるから、右のような叙述のみから直ちに武甕留次郎に脅迫行為があつたと認めるのは速断に失するものといわなければならない。(なお、前掲乙第四号証の三に徴するに、土川とよ子は、被告の審問手続中に行つた証言においても、前示手記の記載内容について何の説明も試みていない。)。
3 武甕留次郎及び松本秀一の八田人事課長に対する陳述並びに右両名作成の理由書について
別紙命令書の理由中第一の六に記載されている事実で、当事者間に争のないところによれば、昭和三二年二月二八日武甕留次郎及び松本秀一の両名は、八田人事課長から、勤務時間中のパチンコ、入浴、常習的な賭博並びに正常な服務の妨害等の反則事実が明らかになつたとして退職の勧告を受けたが、パチンコ及び入浴については原告の従業員の間で一般に行われていることであるから、同人らのみが特に罰せられる理由はなく、賭博をした事実はないから、退職をする理由がないとして右勧告を拒否したが、更にその後同年三月七日に至るまでの間に四回に亘つて同課長に呼ばれ、反則事実の内容及びそれを自認する文書の提出を求められ、最初武甕留次郎においてパチンコ及び入浴について「服務中休憩時間を利用しパチンコをなし休憩時間を些少経過した事、入浴に関しては作業終了後四時三十五分すぎになした事は勤務時間中である。この事実は離職行為と認め服務規定を乱しました」と書いた「理由書」を提出したが、結局賭博については自認せず、その後右の理由書の記載を改めて「服務時間中にパチンコ、入浴等の行為をなし服務規律を乱した事について、其の責任を深く感じ、非常に申し訳なく思つております」という「理由書」を提出した外、配置転換を依頼する旨記載した「依頼書」と題する書面を原告に差入れたが、この依頼書は後になつて返戻された。
ところで上掲乙第一号証の一八及び二〇、乙第七号証の二並びに乙第一一号証の一(但し、各その記載中後掲排斥する部分を除く。)と成立に争のない乙第一号証の一四の(二)、乙第一〇号証の二及び乙第一一号証の三によつて認められるところに従つて、八田人事課長と武甕留次郎との面談の模様及び前示のような理由書の提出のいきさつを補足すると、左のとおりである。武甕留次郎は、昭和三二年二月二八日八田課長と最初に会見した際に、同課長から、勤務時間中にばくち、パチンコ、入浴などをしたおぼえはないかと問いただされたのに対して、パチンコと入浴に関する限りはそのようなことがあつたけれども、それとても、パチンコについては、休憩時間にやつていたのがつい長引いて始業時刻に二、三分遅れたことがある程度であるし、入浴については、終業時刻の少し前に原告の四条の車庫の風呂に入つたことがある位のことで、さようなことは原告の他の従業員も始終やつており、特に咎められる程のことではないと思うし、賭博については、従業員同士でいわゆる「あみだくじ」をやつたことはあるが、そんなものを賭博とかばくちというにはあたらないのではないかと説明し、弁解したのであつて、武甕留次郎のこの態度は、その後においても変るところがなかつた。現に同人が八田課長の要求によつて提出した前判示の最初の理由書(原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の二九がその写にあたる。)の中には勿論賭博に関する記載をしなかつたところ、同課長からその記載を追加することその他若干の修正を指示されて右理由書を返却されたけれども、八田課長のいうように賭博ないしはばくちと呼ぶに値する如き所為について疑を受けるかどうかは毛頭ないものとして、上述のような内容を記載したに止めた新たな理由書(その写が原本の存在と成立に争のない乙第三号証の三の(一)である。)を提出しているのである。しかも武甕留次郎が前述のようにパチンコ及び入浴等による服務規律違反を自認したような理由書を提出したのは、八田課長からそのような書面を配置転換の依頼書と共に提出すれば、職場の変更はあるかも知れないが、引続き原告に雇傭されるように取計つてやるといわれ、始めの間は拒み続けていたが、結局渋々ながらも八田課長の要求に応じたまでであつて、原告の従業員として非違のあつたことを容認して理由書を提出したものではない。前掲乙第一号証の一八及び二〇、乙第七号証の二並びに乙第一一号証の一の各記載のうち、右認定に反する部分は措信できない。
なお、本件に現われたすべての証拠を渉猟してみても、八田課長が武甕留次郎と共に面接して事情を聴取した際における松本秀一の陳述及びその後同人の提出した理由書(原本の存在及び成立に争のない乙第三号証の三の(二)の原本に相当するものであることが、成立に争のない乙第一号証の一四の(三)によつて認められる。)が特に武甕留次郎に関する懲戒処分事由についての確たる認定資料になつたものとは認められない。
叙上のような情況からするときは、八田課長との会談において武甕留次郎及び松本秀一の陳述したところは、要するに、同人らに原告から懲戒処分を受けるいわれのないゆえんを説明し、八田課長の言葉に現われた懲戒処分事由についての嫌疑に対する反駁に終始したものであり、理由書の提出も懲戒処分に関する自らの責任を認めたことを意味するものでないことは明白である。換言すれば、原告は、武甕留次郎及び松本秀一からの事情聴取自体によつては、武甕留次郎に関する懲戒処分事由についてなんらみるべき証拠資料を獲得し得なかつたものというべきである。
4 高城喜代一の八田人事課長に対する陳述について
八田課長が高城喜代一にも武甕留次郎及び松本秀一と同種の懲戒処分事由があるものとして、昭和三二年二月二七日同人に面接の上事情を聴取した後退職を勧告したところ、同人がこれを了承して退職したことは、既述のとおり当事者間に争がないのであるが、前掲乙第七号証の二によると、その際八田課長は高城喜代一に対し、たゞ単に、ばくちをしたことがあるのではないかとか、勤務時間中にパチンコや入浴に行つたことがあるであろうとか、あるいはまた京都御所でガイドに脅迫がましいことをしなかつたかという風に質問をしたに止まり、それ以上具体的に日時、場所または関係者の氏名を明示して右のような事実について確めるという方法をとらなかつたのであるが、高城喜代一はすぐに右質問を肯定して八田課長の勧告に応じて退職する旨答えたことが認められる。
してみると八田課長と高城喜代一との会談の際における後者の陳述は、武甕留次郎に関する懲戒処分事由を認定するについて特に援けとするに足りる程確たるものではなかつたものと解するのが相当である。
上来判示したとおりであるから、原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の理由たる事実を認定するについて証拠に供したものとみられる各個の資料は、前段(一)において説示したように原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の直接の理由として取上げた具体的事実を肯認するためのものとしては、その趣旨内容において明確さを欠然くもの、漠たるものもしくは抽象的なもの又はむしろ反対の趣旨のものないしは無関係なものが殆んどであつてきわめて証明力にとぼしいものであるが、あるいは証拠として全く価値のないにひとしいものばかりであり、そうだとすれば、たとえこれらの資料をいかに綜合してみたところで、前示具体的事実を認めるには程遠いものであるといわなければならない道理である。
(三) 原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の理由を基礎づけた具体的事実の存否
既述のとおり、原告が武甕留次郎に対する懲戒処分の当時入手していた資料によつては、前出(一)で説明したように原告が右処分の理由を基礎づけるべく取上げた具体的事実を十分に証明し得るとはいい難いのであるが、本訴において提出援用された別の証拠をも勘案した場合に、右のような事実の存否について果してどのような認定が得られるのであろうか。
(1) 昭和三一年一〇月下旬から一一月中旬にかけてのRKO映画会社のロケーシヨンの際における賭博について
成立に争のない甲第二五号証、甲第四〇及び第四一号証、甲第四四及び第四五号証並びに証人松本秀一、同高城喜代一、同佐藤二郎及び同竹村松之助の各証言を綜合すると、前記ロケーシヨンには、武甕留次郎、高城喜代一及び松本秀一らがバスの運転手として原告から派遣されたのであるが、同人らは、その間ロケーシヨン先における待時間中にバスの中で、右ロケーシヨンの仕事に参加していた他の運送会社所属のトラツクの運転手や助手その他の者達と一緒になつて、トランプ又は花札を使い現金を賭けて、俗に「カブ」と呼ばれる方法により勝負を争つたことがあり、一回に二、三百円の金が賭けられ、その日の勝敗の清算で千円以上も勝ち、七、八百円も負けた者が出たという場合もあつたことが認められ、武甕留次郎の右所為はこれを賭博行為と称することを妨げないものと解すべきであるから、被告が別紙命令書の理由中第二の一において、武甕留次郎に関しては反社会的性格ありとはいえぬ種類の「賭けごと」程度の所為は別として、「賭博」という名を冠して責めるに値するような反社会的性格をもつ行為があつたということはきわめて疑わしい旨判断しているのは、事案の真相に合致しないものといわざるを得ない。
(2) 前同一の頃におけるガイドに対する掃除の強要等について
この点に関しては、先述のとおり、原告が懲戒処分当時資料に供したものと認められる六期生ガイド近藤小枝子及び横江成子の各手記(乙第三号証の一七及び一八の原本に相当するもの)以外に特に証拠と目すべきものは皆無である。
(3) 京都駅前営業所における松本秀一に対する暴行傷害について
右事件の概要は、前出(二)の1(3)において既に判示したとおり、武甕留次郎が同僚の運転士である松本秀一と梶谷平一との喧嘩の仲裁に入つたときに、松本秀一がこれに従おうとしなかつたため同人を殴つたというにあるところ、成立に争のない乙第一号証の二八の(四)によれば、武甕留次郎は、結局右両人を仲直りさせ、当時前記営業所に居会わせた他の人達にも、騒がせてすまなかつたといつて松本秀一とともに謝り、事なく終つたものであることが認められ、しかも武甕留次郎がその際松本秀一に傷害を蒙らせたこと及び右のような事件のために前記営業所におけるハイヤの営業に支障を生じたことを認めるに足りる証拠は全くない。
してみれば右にみたような武甕留次郎の松本秀一に対する暴行は、たとえ友人間の親しさに端を発したものであつたにもせよ、いささか粗暴に流れた行過ぎの所為であつたというをはばからないけれども、それ自体ことさら懲戒の事由とするに値する程重大な事柄でないというべきである。
(4) 勤務時間中のパチンコ又は入浴による職務放棄について
武甕留次郎が原告から懲戒処分を受けるに先立つて八田人事課長より事情を聴取された際に、休憩時間中に始めたパチンコがつい長引いて始業時刻に二、三分遅れたり、終業時間前に作業を終えてそのまま車庫で風呂に入つたりした程度のことではあるが、ともかくも、勤務時間中にパチンコをしたこと及び入浴をしたことには相違ない旨答えたことは、上述のとおりであるが、証人高城喜代一の証言によると、武甕留次郎は、いわゆるシーズン・オフで仕事が比較的暇なときに、勤務時間中パチンコをしたり、入浴したりしたことが相当回数あつたけれども、パチンコの場合は休憩時間中に始めたのが思わず長引いて勤務時間に喰込んだのが大部分で、又勤務時間中の入浴というのも、一度、RKO映画会社のロケーシヨン隊に加わつて知恩院に赴いた際待時間を利用して銭湯に行つたとき以外は、前叙の如く武甕留次郎が八田課長に対して述べたように作業完了後終業時間前に職場の浴場で入浴したにすぎないものであることが認められる。甲第二五号証の記載及び証人松本秀一の証言中には、武甕留次郎が朝の始業時から夕方の終業時までずつとパチンコをやり続けていたことがたびたびあり、本社から急用の電話があつたときに丁度パチンコ屋に行つていて不在であつたので、松本秀一が岸田運転士に迎えに行かせたとの趣旨のものがあるけれども、前半の部分は上掲証拠に照して措信し難く、後半の部分は、証人岸田隆太郎の証言に照すに、昼の休憩時間中の出来事であつたことが認められる。
ところで成立に争のない乙第一号証の二一の(二)と証人松本秀一及び同高城喜代一の各証言によると、原告の観光バスの運転士は、ひとり武甕留次郎のみに限らず、シーズン・オフ時には、パチンコをするものも少なくなかつたし、又作業が終了すれば終業時刻の三〇分位前に職場の風呂に入ることもまれではなく、このような場合の入浴は上司によつて黙認されていたことが認められる(この認定に反する証人安田貞彦の証言は措信しない。)のであるから、前示認定の程度に止まり、特にそのために職場の秩序を乱し、営業の妨害となつたものとも思われない(これに反する事実を認め得る証拠はない。)。武甕留次郎の前記行為は、一般に懲戒処分の事由とする程までに重大視せられるべき性質のものではないとみるのが常識にかなうゆえんであると考えられるのである。
(5) 京都御所におけるガイドに対する脅迫、京都駅前車庫におけるガイドに対する脅迫及びガイド吉岡正子の乗務中のバスの車内における同人に対する脅迫について
これら事件のそれぞれの内容については、前出(二)の1(5)及び(6)において既に判示したところに付加すべき事実を認めるに足りる証拠は別に存在しない。
(四) してみると現在の段階においても、原告が武甕留次郎に対する懲戒処分についての具体的事由として取上げたもののうちで、その事実の存在が立証され、かつ、懲戒の理由たらしめ得るものと解せられるのは、ただ一つのRKO映画会社のロケーシヨンの仕事に従事していた間に行われた賭博行為だけに過ぎないのである。しかしこのこととても、原告が武甕留次郎に対して懲戒処分を科した当時に原告の握つていた証拠資料からしては十分な裏付がなされていなかつたことについての模様は、先に詳述したとおりである。
叙上のように当時資料が甚だしく不備、不完全なものであつたにもかかわらず、あえて原告は、武甕留次郎に先に述べたような、その所為にかかる事実があるとして(しかもこれら事実のうち前示賭博に関するもの以外はすべてそもそも懲戒処分の事由として論ずるに足りない程のものであり、かつ、右賭博についてさえも、原告は武甕留次郎に対する懲戒処分当時これを確知するに足りる証拠を備えていなかつたことについては上述したとおりである。)、同人に対し懲戒処分を科したのであり、しかも当該処分の内容は、当事者間に争いのないところによれば、従来期間の定のなかつた雇傭関係に三ケ月の期間を付するというにあつて、証人粂田禎雄の証言と前掲乙第五号証の一及び乙第六号証によると、武甕留次郎に対して加えるべき懲戒の方法をどの程度のものとすべきかという点につき、賞罰委員会において最初、原告側の委員は即時解雇を提案したのに対して、労働組合側の委員は雇傭期間に六ケ月の期限を付するに止めるのが適当であると主張したのであるが、結局双方の譲歩によつて雇傭期間に付すべき期限を三ケ月とすることに妥協して、賞罰委員会としての答申を決定の上これを提出し、これに基いて武甕留次郎に対して前示のような懲戒処分が行われたものであることが認められるところからするときは、武甕留次郎は、右三ケ月の期間が満了すれば、原告の従業員たる地位を失うに至ることが必至のものであつたことは明らかである。
右の如き情況にかんがみるにおいては、原告が武甕留次郎に対して前示のような懲戒処分を科したのは、当時表向き挙げていたような武甕留次郎の非行を真の根拠としたものではなく、原告が懲戒処分によつて武甕留次郎との雇傭関係を終止せしめようとしたことの実際上の意図は、別のところに隠されていたものと推定せざるを得ないのであつて、この点からいつて、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分につきいわゆる不当労働行為意思の存否を探求する余地が残されているわけである。
二、不当労働行為の成否
(一) 武甕留次郎の組合経歴
昭和二九年八月二一日観光バス運転士として原告に雇傭された武甕留次郎が一ケ月の試用期間を経て本採用となると共に組合に加入し、昭和三一年二月から昭和三二年二月まで組合の職場委員をしていたことは、被告が別紙命令書の理由中第一の一において認定しているとおりに当事者間に争がない。
(二) 武甕留次郎の組合活動
(1) 被告が別紙命令書の理由中第一の二において認定した事実で、原告の争わないところによると、武甕留次郎の所属した職場である観光バス部門においては、その従業員の勤務状態は、ハイヤー、タクシーなど、原告の他の営業部門に比べて著しく異つていた外、従業員数も比較的に少なかつたこと等の理由から、組合の関係では、職場委員が一名選出されるのみで、従来執行委員等の役員になつた者がなかつたので、当該職場委員は、職場の特殊性から来る問題を含めて各種の苦情の処理にあたると共に、賃金改訂等の問題についても、組合の執行部と一緒に交渉に加わるなど、他部門の職場委員とは違つた特別な実際上の活動を行つて来ていたところ昭和三一年七月原告が組合と交渉の結果、観光バス部門にも既に他の部門で施行していた八時間労働制を実施したについて、当時職場委員であつた武甕留次郎は、右に伴う賃金体系の改訂に関する組合執行部と原告との交渉に、観光バス部門選出の職場委員北義男と共に参加したのであるが、交渉妥結の直前になつて、原告と組合執行部の間で折衝中の案では固定給の引下げになるものと考えて、右案を受諾しようとする組合執行部の方針に強硬に反対し、更にその後、八時間労働制の実施に伴う職場規律の強化についても、観光バス部門の職場における勤務の実態が他の部門と相違するところから、これに不満を抱いていた観光バス部門従業員の意向を体して、右方策に賛成する組合執行部を追及する等のことがあつた。のみならず前掲乙第五号証の二、乙第六号証、乙第七号証の四、乙第八号証、成立に争のない乙第一〇号証の一、上掲同号証の二及び乙第一一号証の三によると、昭和三一年七月三一日頃岡島課長が観光バス部門の従業員に、八時間労働制の実施に関し、これに伴う服務規律の厳格化の方針などについて説明を行つた後引続いて開催された組合員側の懇談会の席上では、原告の意図するような服務規律の強化は観光バス課の実情にあわないという批判が続出し、結局職場委員であつた武甕留次郎が推されて同年八月初旬岡島課長と会談し、善処方を申入れたことが認められる。
(2) 成立に争のない乙第一号証の二四の(三)、二六及び二八の(五)並びに乙第七号証の三と前掲乙第一〇号証の一の外証人松本秀一の証言によると、原告の観光バス課長であつた岡島邦治の労務管理についてはかねてから関係従業員の間に不満が多く、殊に特殊の関係を噂されているガイドに対して有給休暇その他の処置について他のガイドより有利な待遇を与えているという風評さえも拡がり、ガイド同士の間に嫉視反目が生じたところから、昭和三一年一二月初旬に古参ガイド約一〇名の辞職申出問題が発生し、当時観光バス部門関係の職場委員であつた武甕留次郎がその解決に努力したことが認められるのであるが、その詳細は、別紙命令書の理由中第一の四において被告が認定した事実のうち、当事者間に争のないところによると、左のとおりである。即ち、昭和三一年一二月初旬に、古参ガイド約一〇名が職場の不明朗を理由に辞職したいといつて、職場委員であつた武甕次郎のところへ不平を申出て来たという事件が起つた。武甕留次郎は、岡島課長に対して善処方を要望したのであるが、同課長は、当該ガイドのほか全ガイドとも個別に会見して事情を聴取した上、辞職したいと言つているのは川野千鶴子と川坂泰子の二人だけであるとして、この両名に対して「やめるならやめろ」という趣旨のことを言渡し、その翌日から同人等を乗車させない処置をとつた。武甕留次郎は、事態の解決に努力を重ね、同月末職場会議を開催して、不平を訴えて辞意を述べた者に辞職の意思を撤回させ、岡島課長に対しては、問題を白紙に返すよう申入れた。にもかかわらず問題の解決をみるに至らなかつたところから、武甕留次郎は、再度職場大会を招集して、それまでの経過を報告すると共に、岡島課長より、この問題にタツチすると身のためにならないといわれたので、手を引きたい旨述べたところ、参集した組合員は、一同団結して武甕留次郎と行動を共にするとの趣旨の文書を作成してこれに署名した。かくしてこの問題は、職場大会の決議により、職場委員の武甕留次郎が組合の執行部に善処方を要請し、同執行部が原告と交渉してこれを収拾する形をとり、乗車を差止められていた前記二名のガイドが翌年一月一五日から再び乗車勤務するようになつて一応の解決をみたのであるが、結局右両名は同年三月に退社してしまつたのである。
(3) 前掲乙第一号証の二四の(三)、乙第七号証の四及び乙第一〇号証の一によると、武甕留次郎は、昭和三一年六月頃岡島課長に対し、原告の従業員の慰安旅行に利用される観光バス課のバスに乗務する運転士とガイドには手当を支給してもらいたいとの交渉をなし、その結果各人に金千円ずつの手当が支給されることになつたことが認められる。
(4) 前掲乙第一号証の二四の(三)及び乙第一〇号証の一によると、八時間労働制の実施以前においては、観光バスの運転士及びガイドの賃金が乗車粁数によつて算出される定であつたので、これら従業員が例えば客の送迎のため夜遅くまで勤務した場合においても残業手当というような特別の支給はなされなかつたのであるが、武甕留次郎は、昭和三一年七月頃その改善について原告との交渉にあたりこれを実現せしめたことが認められる。
(5) 成立に争のない乙第七号証の一及び前掲乙第九号証の二、乙第三号証の三七によると、昭和三一年九月から原告の営業用観光バスがRKO映画会社のロケーシヨンに利用され始めた当初のうちは、殆どガイドが乗務させられなかつたけれども、武甕留次郎が岡島課長と交渉した結果、同年一〇月初めよりはガイドの同乗が原則になつたことが認められる。
(三) 武甕留次郎の組合活動に対する原告の態度
(1) 昭和三一年一二月初旬に古参ガイド約一〇名の職場不明朗を理由とする辞職申出事件に関し、職場委員としてその解決のため奔走した武甕留次郎が同月末岡島課長に対して問題の白紙還元を申入れたことのあつたことは、既述のとおり(前出(二)の(2)参照)であるところ、前掲乙第一号証の一四の(二)、乙第一号証の二一の(二)、乙第一号証の二六、乙第七号証の三及び乙第一〇号証の一並びに証人瀬尾正三郎の証言(これら証拠中後記措信しない部分を除く。)によると、岡島課長は、右事件が川野千鶴子及び川坂泰子の煽動によつて、同課長の労務管理の不手際殊にガイドに対る処遇の偏頗を攻撃し、これに反撥しようとする目的に出たものであるとみて、著しくこれを不快視していたので、職場委員としてこの問題に介入した武甕留次郎より前示の如く昭和三一年一二月末に申入がなされた際、同人に対して、その問題には深入りしない方がよいという意味の発言をしたことが認められる。乙第一号証の一一の(二)、乙第一号証の一四の(二)及び乙第一号証の二三のうち、岡島課長の前記発言の際におけるその内容に関しての右認定に抵触する如き趣旨の部分は措信できない。なお、被告は、別紙命令書の理由中第一の四において、岡島課長が当時武甕留次郎に対して「この問題にタツチすると身のためにならぬ」という趣旨の、武甕留次郎の進退に重大な影響を与えるべき発言をしたものと認定しており、乙第一号証の一四及び二一の各(二)に録取されている武甕留次郎と北義男の各供述においては、岡島課長の発言は前示のような意味に受取れる趣旨のものであつたと述べている。岡島課長の当該発言の内容の解釈のいかんはともあれ、前記認定のような情況からみて、少くとも、岡島課長は、武甕留次郎がガイド辞職申出事件に関与することを嫌悪していたことだけは明白である。
(2) 先に判示したとおり(前出一の(二)1中(5)参照)、昭和三二年二月に行われた原告の観光バス部門における組合職場委員の改選にあたり、武甕留次郎が予備選挙に先立つて再出馬の意思のないことを表明したにもかかわらず、運転士及び古参ガイドの一部の者が同人を再選させようとして運動したけれども成功せず、岸田参二運転士が予備選挙にも本選挙にも僅少の投票差で武甕留次郎を押えて当選したのであるが、前掲乙第一号証の二四の(三)、乙第一号証の二八の(五)及び乙第一〇号証の一によると、以下のような事実が認められる。即ち、前述のとおり武甕留次郎が職場委員の選挙に落選したのは、六期生ガイドが岸田参二に投票したため、予備選挙においても、本選挙においても両者の得票に一票の差が生じたことによるものであるところ、予備選挙の際には、投票の直前に一期生ガイドの森木弘子が六期生ガイドの全員を集めて何事か話合つていた事実があつたし、本選挙の当日には、六期生ガイドは全員投票に参加したのに、古参ガイドでは森木弘子と川野千鶴子の二人以外は乗務の都合上投票をすることができなかつたのであるが、これらの者はすべて武甕留次郎を再選させようとする考えをもつていたのであり、しかもガイドに対する配車は指導員の土川とよ子がきめたものであつたこと、本選挙の終了直後、それまで組合のことに全く関心を示したことのなかつた土川指導員が松本利一運転士に対し、わざわざ岸田参二の当選の有無を確かめるということがあつた。そして武甕留次郎は従来観光バス部門から選出された職場委員の中で最も活溌に活動したのに反して、岸田参二はむしろ使用者側に協調的で、そのいいなりになるおそれがあるものとみる向きもあつたのであつて、前述のように武甕留次郎の辞退にもかかわらず、同人の再選を図り、岸田参二の当選を阻もうとする運動が行われた原因も、さような事情があつたからに外ならない。してみれば、岡島課長は、かねてから武甕留次郎の職場委員としての活動に着目して同人の再選を阻止するため、土川指導員や森木ガイドを使つて当時ガイドの中で最も多数を占めていた六期生ガイドに働きかけ、岸田参二に投票させて同人を当選させるよう策したものとみることができる。
(四) 武甕留次郎に対する懲戒処分に至るまでの間に原告のとつた措置
いわゆる御所事件について関係者の一人から通報を受けたガイド指導員土川とよ子がこれを岡島課長に報告したところから、同課長と六期生ガイドの会見が行われ、同課長よりその結果が八田人事課長に報告されたこと及びその後原告から武甕留次郎に対して懲戒処分が科せられるに至るまでの経過が別紙命令書の理由中第一の五及び六において被告の認定として記述されているとおりに当事者で争のないところからすると、右懲戒処分の端緒となつたのは、岡島課長が御所事件について聞知したことにあるものというべきである。しかるに前掲乙第一号証の一一の(二)及び乙第七号証の四によると、岡島課長は、右事件に関する調査のため六期生ガイドから事情を聴取しただけで、武甕留次郎に放置し難い非行のあることが判明したとして、同人の弁解を聞くこともなく、直ちに八田課長にその旨報告したことが認められる。ところで六期生ガイドが原告の武甕留次郎に対する懲戒処分につきその事由として取上げた具体的事実についての見聞であるとして、岡島及び八田両課長の事情聴取に応じてした陳述及びこれを書面にしたためたものであると認められる手記は、右懲戒処分事由の認定について最も有力な資料に供せられたとはいえ、証拠としての価値がきわめてとぼしいものであり、その他に確たる証拠としてとるに足りるものは皆無に等しい実情であつたことについては、先に詳述したとおりである。しかも前示のとおり武甕留次郎の非違行為と称するものについて岡島及び八田両課長に陳述をなし、かつ、手記を作成提出した六期生ガイドは、いずれも職場委員の選挙に武甕留次郎が落選したことから、同人及び同人を支持した運転士及び古参ガイドの一部と鋭い感情的対立状態にあつたのであり、そのことを岡島課長が熟知していたことは、察知するに余りがあるものというべきである。そして前掲乙第四号証の四、乙第五号証の一及び二、乙第六号証、乙第七号証の二及び四、乙第八号証及び乙第一一号証の一並びに証人粂田禎雄の証言中、原告が武甕留次郎に対する懲戒処分について賞罰委員会の開催を決めて以来懲戒処分の発令に至るまでの間の経過に関する部分に徴すると、原告は、先に説示した以外の証拠の蒐集、特にいわゆる第三者的立場にある者について事実を調査するようなことを全然しなかつたことが認められ、しかも武甕留次郎に対しては、八田課長による六期生ガイドからの事情聴取及び手記の徴取の直後に早速退職が勧告され、賞罰委員会においても原告側の委員は最初から武甕留次郎に科すべき懲戒の方法を即時解雇とすべきであると主張したことは、上述したとおりである。
(五) 不当労働行為意思の存在
上来認定して来た諸般の事情からすると、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分は、次の如くにして科せられるに至つたものと考えるのが相当である。即ち、原告側において武甕留次郎に対して懲戒処分の必要がある旨の意見を最初に提示したのは、当時原告の観光バス課長として武甕留次郎の直接の上司であつた岡島邦治であり、同課長は、かねがね武甕留次郎の職場委員としての組合活動、殊に自らの労務管理のやり方に対する批判、追及を嫌悪していた折柄、武甕留次郎の職場委員選挙における落選に起因していわゆる御所事件なるものが発生し、その事件においては、武甕留次郎その他右選挙で同人を支持した運転士が六期生ガイドの不協力のため武甕留次郎の再選が実現しなかつたとして、右ガイド達を脅迫したことを、ガイド指導員土川とよ子の報告により知つて六期生ガイドから事情を聴取したのみで直ちに八田人事課長に対して、武甕留次郎に関する懲戒事案として報告し、これが端緒となつて遂に原告から武甕留次郎に対して、結局は雇傭契約の終了を招来することを必至とする懲戒処分が、的確な証拠によつて認定されたものとは到底みられない事実を理由として科せられるに至つた(もつとも当該懲戒処分の事由のうちでRKO映画会社のロケーシヨン先において武甕留次郎に反社会的性格なしとはいえない賭博行為があつたことは、本件に現われた証拠によれば、これを認め得るけれども、当時原告が入手していた資料による限り、右賭博行為について原告が十分な心証を得ていたものと解し難いことは、既に明らかにしたとおりである。)のである。換言すれば、原告が武甕留次郎の非行を同人に対する懲戒処分の理由としたのは単に表面上のことにすぎず、実際は、岡島課長の企図のままに上述のとおり組合活動に熱心な武甕留次郎を企業外に追放しようとするのが右懲戒処分の目的であつたものと推断せざるを得ないのである(武甕留次郎に対する懲戒処分に関する岡島課長の意図が上記のとおりであつた以上、同課長の前示のような原告の職制としての地位にかんがみ、原告の不当労働行為意思の存否を決するについて、同課長の意思が第一の手がかりになるべきものであることは、多言の要のないところである。)。
なお、原告は、武甕留次郎の懲戒処分の事由として取上げられた同人の所為の中に、比較的軽微、些細なもので、普通一般には懲戒処分の事由とするに値しないようなものが多く存在していたものとみられるとしても、当時原告の観光バス部門において、八時間労働制の実施に伴い、その従業員の服務規律の厳格化を励行しつつあつた折柄、武甕留次郎の右のような所為といえども、これを看過し又は放置することを得ない状況にあつたとして、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分が同人の非違行為に対する責任の追及以外のいかなる意思に基くものでもない旨主張する。前掲乙第四号証の四、乙第五号証の一及び二、乙第六号証、乙第七号証の二、乙第八号証並びに証人粂田禎雄の証言によると、原告の観光バス部門の従業員についても、ハイヤー部門の従業員に次いで、昭和三一年七月頃から、八時間労働制が実施されて来たのであるが、その基本的な考え方は従業員に対する賃金を労働量によつて計算していた従来の方針を改めて、労働時間に対応して賃金を支払うことにした点にあるため、その運用にあたつては、勤務時間中における従業員の労働内容の充実を図るため服務規律を厳格にすることの必要が原告と組合との間で確認され、双方でその周知徹底について措置を講じたことが認められるところからすると、八時間労働制の実施に伴う観光バス部門における服務規律強化は、労働量の減少又は労働成果の低下にもかかわらず、形式上の勤務時間数によつて賃金額が算定されることにならざるを得ない不合理を回避することを主眼としたものと考えられるし、その他被告が別紙命令書の理由中第二の一において提示している判断をも援用することによつて、八時間労働制の実施によつて武甕留次郎の前述のような行為の懲戒処分事由としての評価に特別の変化は生ずるものではないと解するのである。
ところで原告は、武甕留次郎に対する懲戒処分については賞罰委員会の答申がそのまま採択されたのであるが、従来慣行として、賞罰委員会が従業員の懲戒処分について行つた答申に原告は拘束されて来たものであるから、武甕留次郎に対する懲戒処分についても、それが不当労働行為となるためには、賞罰委員会自体に不当労働行為意思が存在していたことを必要とする筋合であり、もしその存在にして認められない限りは、たとえ岡島課長に不当労働行為意思があつたとしても、その意思と武甕留次郎に対する懲戒処分との間の因果関係は、不当労働行為の意思に基いたものといえない賞罰委員会の適正な答申がその中間に介在したことによつて中断されると主張するので、この点について判断する。
賞罰委員会が制度上においては懲戒事案に関する原告の諮問機関とされていることは、原告も自認しているところである。ところで成立に争のない甲第三七号証及び甲第三八号証並びに証人粂田禎雄の証言によると、昭和二六年八月以来昭和三四年八月までの間に賞罰委員会に付議された懲戒事案合計一五四件について賞罰委員会が原告に提出した答申は、全部そのまま原告によつて採用されていることが認められる。しかしながらこの一事から直ちに、原告が組合員たる従業員に対する懲戒権の行使に関し賞罰委員会の答申に拘束されるのが慣行であるとは即断できないし、他に右のような慣行があることを認めるに足りる証拠はない。
そうとすれば原告の主張する前記因果関係中断論は、その独自の見解にすぎず、岡島課長に上述したような意思の存した以上、武甕留次郎に対する懲戒処分について原告に不当労働行為の意思がなかつたものとはいえないとした被告の本件命令における判断を誤りであるということはできない。
なお、武甕留次郎に関する懲戒事案について審議にあたつた賞罰委員会の答申は、労使双方委員の全員一致の意見によるものであつたことは、本件弁論の全趣旨に徴して窺い知ることができるのであるが、前掲乙第一号証の一一の(三)、乙第一号証の一六、乙第四号証の四、乙第五号証の二及び乙第六号証と証人粂田禎雄の証言を綜合すれば、武甕留次郎に対する懲戒事案が賞罰委員会において審議されるまでの間に組合側の委員は、組合の副執行委員長田矢和生が事前に武甕留次郎について事情を聴取した結果の報告として、原告が懲戒処分の事由として問題にしようとしているような事実はないという、既述のとおりの本人の説明及び弁解を聞知していた以外に特別なんらの調査もしていなかつたのであるが、委員会の席上において会社側の説明、報告を聞き、かつ、六期生ガイドの手記なるものをみせられただけで、武甕留次郎に懲戒処分の理由があるものと認めることには賛成し、討議の重点を懲戒の方法に置いて意見の開陳及び折衝にあたつたことが認められる。してみると原告の武甕留次郎に対する懲戒処分に関して賞罰委員会の組合側委員が賛意を表したということは、右懲戒処分が不当労働行為にあたるかどうかを決するについて特段の意義をもつものとはいえないのである。
叙上これを要するに、原告の武甕留次郎に対する懲戒処分は、労働組合法第七条第一号の不当労働行為を構成するものと断定すべきである。
原告は、武甕留次郎及び松本秀一が原告から懲戒処分を受けたにつき、原告を相手取り京都府地方労働委員会に不当労働行為救済の申立をしようとしたときに、その担当職員伴埜省三が同人らに不利益な事実の隠蔽を示唆したことがあつたと主張し、そのことが右委員会はもとより被告の事実誤認の有力な一因となつているとして、本件命令の違法を攻撃するところがあるのであるが、この点に関する原告の主張に副う証人松本秀一の証言並びに甲第三号証及び甲第二五号証の記載は、証人伴埜省三の証言に照して措信できないし、無論伴埜省三の言動のために本件命令に違法の生じたことを認め得る証拠は絶無である。
第三、結論
してみると、原告が武甕留次郎に対してした懲戒処分を不当労働行為にあたるものとしてその救済を命じた初審命令に対する原告の再審査申立を棄却した本件命令はまことに正当であつて、原告の主張するような違法なものではないというべきである。
よつて本件命令の取消を求める原告の請求を失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 桑原正憲 駒田駿太郎 北川弘治)
(別紙)
命令書
京都市中京区壬生仙念町五
再審査申立人 弥栄自動車株式会社
右代表者取締役社長 粂田晃夫
京都市伏見区津和橋町三七三ノ一
再審査被申立人 武甕留次郎
右当事者間の中労委昭和三十三年(不再)第四号事件につき、当委員会は、昭和三十三年十一月二十六日第三百二十六回公益委員会議において、会長公益委員中山伊知郎、公益委員藤林敬三、公益委員吾妻光俊、公益委員中島徹三、公益委員兼子一、公益委員林武一、公益委員石井照久出席し、合議の上左のとおり命令する。
主文
本件再審査申立を棄却する。
理由
第一当委員会の認定した事実
(当事者)
一、再審査申立人弥栄自動車株式会社(以下会社という。)は、住所地において、ハイヤー、タクシーを業とし、昭和三十二年九月二十日までは観光バスをも営業し、従業員約八〇〇名を擁する事業所である。
再審査被申立人武甕留次郎(以下被申立人または武甕という。)は、昭和二十九年八月二十一日に会社の観光バスの運転士として入社し、一カ月の試用期間を経て本採用となるとともに、会社の従業員をもつて組織され組合員約七五〇名の弥栄自動車労働組合(以下組合という。)の組合員となり、昭和三十一年二月から観光バス部門における組合の職場委員として活動していたが、昭和三十二年二月職場委員をやめ、同年三月会社から雇用に三カ月の期間を付する懲戒処分をうけ、同年六月十四日解雇されたものである。
(被申立人の職場の状況と職場委員の地位)
二、被申立人の勤務していた会社の観光バス部門は、会社のハイヤー、タクシー部門にくらべて、運転士のほかにバスガイドがいること、季節的に勤務状態に繁閑があること、一日の勤務についても乗車が不定期であること、また、勤務にあたつて観光先で長時間にわたるいわゆる待時間をもつ機会の多いこと等において、同じ自動車営業でも著しく勤務状態が異つていた。一方、観光バス部門の設立は比較的最近のことであり、従業員も四〇名程度にすぎないため、組合としても、同部門からは職場委員一名を選出せしめるにとどまり、これまで執行委員等の組合役員となつた者は存しなかつた。
したがつて、同部門の職場委員は、職場の特殊性からくる問題もふくめて各種の苦情の処理にあたつたほか、賃金改訂等の問題についても、組合執行部とともに交渉にあたるなど、他部門の職場委員とは異つた特別な実際上の活動をおこなつてきていた。
昭和三十一年七月、会社は、組合と交渉の結果、タクシー部門、ついでハイヤー部門ですでに実施していた八時間労働制を観光バス部門にも施行したが、当時観光バス課の職場委員であつた武甕および前職場委員であつた北義男は、いずれも賃金改訂委員として組合執行部とともに、この交渉にあたつた。
ところが、妥結直前になつて、両名は、会社と組合執行部との間で折衝中の案は従前の賃金体系とくらべて固定給の引下げになると考え、執行部の方針に強硬に反対し、そのため執行部との間に感情的対立を来したことがあり、その後、八時間労働制実施に伴う職場規律の強化についても、観光バス部門の職場の勤務実態が他部門と異るところから、執行部の説明に観光バス部門の従業員が不満を抱いていたので、この点について、武甕が執行部を追及する等のことがあつた。
(武甕の組合活動)
三、武甕が職場委員に就任していた昭和三十一年当時、会社の観光バス課長である岡島邦治の労務管理のやり方について、従業員間に多くの不平不満があり、特に岡島課長の私行に関連してバスガイドに差別待遇をする等の噂が拡がつたため、バスガイド間にしつ視反目が生じ、職場内にとかく問題が起りがちであつた。武甕は、この間にあつて職場委員として、同年六・七月には八時間労働制実施に伴う賃金改訂交渉、六月には従業員の慰安旅行の際の運転者の処遇、七月には休日日数の不公平取扱の是正、同じく七月に残業手当の交渉、九月には米国R・K・O映画会社の仕事に関連するバスガイドの乗車問題等について、積極的に活動し、相当の成果をあげることができた。
以上の活動のほか、武甕は、岡島課長の労務管理のやり方を折にふれて問題にし、その是正を要求する等のことをおこなつてきた。
(昭和三十一年十二月から昭和三十二年一月にかけての職場の紛きゆう)
四、昭和三十一年十二月初旬に、古参ガイド約十名が、職場不明朗を理由に辞職したい旨の不平を職場委員である武甕に申し出た事件が起つた。武甕は、このときも岡島課長に対して善処方を申し入れたところ、岡島課長は、当該関係者のほか全ガイドとも個別に会見して事情を聴取し、本当にやめたいと思つているのは苦情処理連絡員である川野千鶴子および川坂泰子だけであるとし、両名にたいして、「やめるならやめろ」という趣旨の言い渡しをおこない、その翌日から乗車せしめない処置をとつた。
武甕は、この問題の処理に努力を重ね、十二月末に職場会議を主催し、辞意を述べて不平を訴えた者の意思を撤回させ、さらに岡島課長に問題を白紙にするよう申し入れたところ、岡島課長は、「この問題にタツチすると身のためにならぬ」という趣旨の、武甕の進退に重大な影響を与えるべき発言をする等のことがあり、その後も、この問題が解決されるにいたらなかつたので、昭和三十二年一月九日、武甕は、再度職場大会を開き、今までの経過を報告し、あわせて、前示のごとき岡島発言があつたので今後この問題にタツチし難い旨述べたところ、参集した組合員は、一同団結して武甕と行動を共にする旨の文書を作成し署名した。
この問題は、職場大会の決議により、職場委員武甕が組合執行部に善処方を要請し、組合執行部が会社と交渉して収拾する形をとり、乗車せしめられなかつた二名のバスガイドは一月十五日から乗車勤務するようになつて、一応の解決をみたのであるが、この二名のバスガイドは結局三月に退社してしまつた。
(職場委員改選をめぐる紛きゆう)
五、武甕の職場委員としての任期は、前記紛争の直後である二月に満了となり、同人は職場委員をやめたのであるが、この改選をめぐつて、つぎのような紛きゆうが起つた。
二月十日に職場委員候補者を選挙する職場大会がおこなわれたが、その席上武甕は職場委員再選を辞退したい旨の意向を表明した。その選挙の結果は、武甕および岸田参二運転士に票が集中し、僅差で岸田が当選するところとなつた。
ところが、運転士および古参ガイドの一部は、岸田がつねづね岡島課長に同僚の悪口などを告げる人物であつて、職場委員としては適当な人物ではなく、また、この予備選挙には岡島課長ならびに岡島課長の意をうけたバスガイド指導員土川とよ子らの策動があつたと考え、岸田が本選挙で職場委員に選ばれることに強く反対し、武甕の再選を図る運動をすすめるにいたつた。
二月十三日の組合大会における本選挙では、結局一票の差で武甕が敗れたのであるが、改選の直後である二月十五日、京都御所広場で、バス運転士高城喜代一、武甕、藤原健吉および岸田隆太郎の四名ならびに古参のいわゆる一期生ガイド川野らは、たまたま同乗していた勤務経験の一番新しいいわゆる六期生ガイド大前公子、武田陽子および大野悦子にたいして「本選挙の結果は、六期生グループがわれわれ運転士の意向をいれてくれなかつた結果である」として非難し、その際特に高城は「今後六期生にたいしては強硬な態度に出る」旨のことなどを強い調子で述べたため、六期生ガイドの一人が泣きだす等の事件が起つた。
この事件について関係者の一人から通報をうけた土川指導員は、直ちに岡島課長に報告し、同課長は、二月十七、八日頃六期生ガイドを呼んで調査をおこない、その際、高城、武甕およびこの御所事件に関係のない松本秀一らがバクチその他の反則行為をおこなつた事実が判明したとして、人事課長八田猛夫にその旨の報告をおこなつた。
(賞罰委員会までの経過)
六、岡島課長から報告をうけた八田人事課長は、二月二十日喫茶店に関係者を集めるよう命じ、岡島課長、瀬尾係長、土川指導員らとともに、集められた六期生ガイド九名から、武甕らの反則行為について事情を聴取し、その結果を手記にして提出するよう命じた。この手記は二月二十三、四日頃八田人事課長に提出された。
その結果、武甕ら三名について、勤務時間中のパチンコ、入浴、常習的な賭博、ならびに正常な服務を妨害した等の反則事実が明らかになつたとして、同月二十五日頃武甕らを事実上下車勤務にうつし、同月二十七日高城には退職を勧告したところ同人はこれをうけて退職した。
二月二十八日、八田人事課長は、武甕および松本の両名にも退職を勧告したが、両名は、反則事実のうち、パチンコおよび入浴については両名に限らず一般的におこなわれていることであるから両名のみが特に罰せられる理由がないこと、賭博については否定し、退職の理由がないとして、同課長の勧告を拒否した。そこで同課長は、その後三月七日にいたるまで、武甕らを四回にわたつて呼びよせ、反則事実の内容およびそれを自認する文書の提出を求め、最初武甕からパチンコおよび入浴について「服務中休憩時間を利用しパチンコをなし休憩時間を些少経過した事、入浴に関しては作業終了後四時三十五分すぎになした事は勤務時間中である。この事実は離職行為と認め服務規定を乱しました」とした『理由書』が提出されたが、結局賭博についての自認をえられず、前記『理由書』を「服務時間中にパチンコ、入浴等の行為をなし、服務規律を乱した事について、其の責任を深く感じ、非常に申し訳なく思つております」と改めた『理由書』をうけとり、前に六期生ガイドから提出された手記とあわせ、証拠として賞罰委員会に付議する手続をとつた。武甕が『理由書』を提出する際、同人の配置転換を依頼する『依頼書』が同時に提出されていたが、『依頼書』は同人に戻された。
一方、労働協約に基いて設置された賞罰委員会の構成員である組合にも、両名の反則事実を記載した賞罰委員会決定書があらかじめ送付されてきたので、組合側委員の一人である田矢和生副委員長は、賞罰委員会の開催前に、武甕および松本の両名を呼び、組合側の立場から事情を聴取したが、武甕からは前示と同趣旨の弁明をうけたのみであつた。
(賞罰委員会および懲戒理由)
七、賞罰委員会は、会社を代表する委員および組合を代表する委員をもつて構成され、従業員の賞罰事案に関し会社の諮問に応じ審議答申する労働協約上の機関であるが、本件に関しては、三月十三、十四日の両日、会社側は粂田禎雄営業部長、八田人事課長、岡島観光バス課長、組合側は松本捨次郎委員長、田矢副委員長、玉川秀雄書記長が出席して開催された。
この席上、八田人事課長は、組合にあらかじめ連絡してあつた反則事実のほかに、岡島課長の申告に基く各種の違反行為について口頭説明をおこない、それらについて岡島課長が補足説明をおこなつたが、八田課長はその際武甕および松本の弁明の趣旨については別に説明をおこなつていなかつた。
結局、本件に関し、組合側委員は従来再雇用される例の多かつた六カ月の期間付雇用を、会社側委員は即時解雇を、それぞれ主張したのであるが、答申としては雇用に三カ月の期間を付する解雇とし、了解事項としてその間ハイヤー部門への配置転換をするとの懲戒処分をすることにきめ、会社はこれに基いて三月十五、六日頃本人に通知した。
武甕は、この通知をうけたのち直ちに賞罰委員会に再審の申立をおこなつたが、その後この申立を取下げ、この結果昭和三十二年六月十四日解雇されるにいたつた。
武甕の処分理由は、結局、勤務時間中であるのにかかわらず無断外出をしてパチンコに興じたり入浴したりして職務を放棄し就務上の指示監督に従わず、職場秩序をびん乱し、加えて一部従業員をせん動して正常なる服務を妨害したり、R・K・O撮影隊日本ロケーシヨンの仕事の最中常習的に賭博行為をおこなつて社則に違反風紀を乱したというものである。
(会社のバス部門廃止)
八、昭和三十二年九月二十一日、会社はバス部門を廃止し、同月十七日に別に設立されていたヤサカ観光バス株式会社にその営業をゆずり渡した。
第二当委員会の判断
会社は、武甕の処分は、同人が「昭和三十二年一月観光バス運転士として就業中、勤務時間中であるのにかかわらず無断外出してパチンコに興じたり入浴したりして、職務を放棄し、就務上の指示監督に従わず、職場秩序をびん乱」し「尚一部従業員をせん動して正常なる服務を妨害したり、R・K・O撮影隊日本ロケーシヨンの仕事の最中常習的に賭博行為を行つて社則に違反風紀を乱した」等のためであると主張するのに対し、武甕は、同人が観光バス部門関係の組合の職場委員として活溌な組合活動をおこなつたことが真の理由であると主張する。
(懲戒理由の当否について)
一、まず、会社のいう理由中パチンコおよび入浴の点については、本人の自認するとおり多少違反と目すべきものが認められるけれども、その程度は、初審、再審を通じての武甕の証言ならびに八田人事課長の求めにより武甕が最初に提出した『理由書』でのべているように、「休けい時間を利用しパチンコを為し休けい時間を些少経過」したこと、「入浴に関しては作業終了後四時三十五分過ぎ為した」にすぎないことが認められ、賞罰委員会に提出された『理由書』はこの点やや具体性を欠くが、これは八田人事課長の調査に際し賭博の点につき武甕が全く否定したので同課長に書き直しを命ぜられたもので、その内容は必ずしも当初提出の『理由書』記載の事実を否定するものではないし、会社の全立証をもつてしても、この認定をくつがえすに足る証拠も存しない。この点について、賞罰委員会に臨んだ組合側委員は、事前調査も充分でなく、かつ、ハイヤー、タクシー部門出身であつて観光バス部門の勤務実態につき具体的認識が乏しかつたため形式的な証拠を措信して、武甕の処分を認めたものと判断される。
つぎに、武甕が「一部従業員をせん動して正常なる服務を妨害した」という点について会社はいわゆる御所事件を指すものとしている。本件は、前記認定のとおり高城の発言に多少穏当を欠くものがあつたと認められるけれども、この事件で武甕が「せん動」した事実については、裏付けがないのみならず、むしろ逆に高城のやや行きすぎの態度をなだめたことが認められる。しかも同じ場所に居合わせた他の運転士にはなんらの処分がなされていないことをあわせ考えると、この点で武甕を問責するのは当をえない。
また、いわゆる賭博行為については、会社の全立証をもつてしても、会社主張ならびにガイド手記およびガイド証言にいう「賭博」ないし「バクチ」ということも、「賭博」という名を冠して責むるに値いするような反社会的性格をもつ行為があつたかどうかはきわめて疑わしく、証言をおこなつたバスガイドらもかかる性格をもつものとして認識してはいなかつたのであり、かつその具体的内容は初審、再審を通じて殆んど明かにされなかつたことが認められ、かりになにかあつたとしてもそれは反社会性ありとはいえぬ種類の「賭けごと」程度のもので、かかる「賭けごと」に類することは、本件会社のような接客業の従業員にとつては特に慎しむべき行為ではあるが、会社の観光バス部門の最高責任者岡島課長もおこなつたことがある旨明言しているほどであり、これによつて職場秩序を乱されたとはなし難いばかりでなく、賞罰委員会に臨んだ組合側委員もこの点を重視していなかつたことがうかがえるので問題とするに由ない。
以上のほか、岡島課長ならびに八田人事課長が賞罰委員会の席上において口頭説明をおこなつた武甕の反則事実については、会社は再審で主張するところ少く、かつ立証も殆んどないのであるから、おおむね初審認定のとおり、特に理由とするに足らないものと認められる。
なお、会社は「八時間労働制実施に伴つて、従前に比し、服務規律を厳正にする必要があり、また、組合の了解をえてそれを周知せしめ実施してきており、したがつて、以前は見のがされてきたような反則行為でも問題になる」という趣旨の主張をする。
しかしながら、武甕の処分理由としてあげられているものの内容は、服務規律の厳正化という会社の方針の下においても、それ自体軽微もしくは根拠薄弱である一方、服務規律を厳正にするといつても他のハイヤー、タクシー部門とくらべての観光バス職場の特殊性を考慮するとき、本件における懲戒処分に値いするほどの規律違反であるかどうか甚だ疑問である。
服務規律の厳正をいいながらタクシー運転士の時間中の仮眠についての虚偽報告の懲戒等以外いわゆる綱紀粛正的措置をおこなつていなかつたし、また、武甕らを問題にする前後賭博類似行為に関する調査もおこなつておらず、この点に関して従業員に対し一般的に注意を与えていなかつたこと等からすると、いわゆる八時間労働制の実施に伴う服務規律の厳正といつてみても、それは、可罰的評価に軽重の差を生ぜしめることがありうるにしても、会社の主張するほど重要な相違をもたらすものでもなく、かつ、軽微なものをも一律に問題にする趣旨でもなかつたことがうかがわれるのである。
(会社の不当労働行為の成否について)
二、以上のとおり、会社のあげる処分理由には、いずれも納得するに足るものが存しないが、一方武甕の組合活動については、前記認定のとおりであり、特に、観光バス部門の従業員の間には岡島課長の労務管理の不手際から不平不満が多く、同課長の私行にまつわるバスガイドの差別待遇の問題についてもその是正について強い要求があつたところから、武甕が、職場委員としてこれらの問題を積極的にとりあげ岡島課長と交渉をおこなつてきたこと、岡島課長の労務管理のやり方に端を発する昭和三十一年十二月のバスガイド約十名の退職申出事件に関し、問題の積極的な打開をはかろうとした武甕にたいして、会社の観光バス部門における最高責任者たる同課長が前記認定のとおりの武甕の進退にとつて重大な発言をしたこと、翌年一月九日の職場大会での全員署名が、万一この交渉で武甕の進退に問題が起つた場合には、全員辞職して対抗する決意の下におこなわれたこと、さらに、武甕の処分の直接の契機となつたいわゆる御所事件で、岡島課長がことさら武甕を首謀者として問題にし、武甕らについてなんら確めることもなく直ちに反則行為ありとして、八田人事課長に報告したこと、会社は、規則違反について、勤務実績が一番少く、また、職場委員の選出にあたつて感情的な対立関係を生じていた六期生ガイドだけから事情を調査しこれを手記として提出せしめ、他のバスガイドその他からは事情を聴くことすらなかつたこと、会社は、従来賞罰委員会では指導戒告するのが主である方針をとりながら武甕については最初から戒告等は問題にせず、すぐにやめさせる措置をおこなつたこと、等の諸事実からみると、会社は、武甕の職場委員としての組合活動、ことにバスガイド退職申出事件にみられるごとき労務管理の不手際が問題とされることを非常に嫌い、前記御所で起つた紛争を奇貨として、武甕の処分をおこなつたものである、と判断せざるをえない。
会社は、たとえ岡島課長が武甕の職場の組合活動を嫌つたとしても、会社の考えは必ずしもそうでなかつた趣旨の主張をするが、岡島課長は、会社の職制として、ことに観光バス部門については、その最高責任者として行動していたのであるから、同課長の行為が会社の行為として認められるべきことは当然である。
(賞罰委員会の答申について)
三、つぎに、会社は、「被申立人等の反則行為が虚構のものでない限り、賞罰委員会が独自の可罰的評価に基き自由裁量権の範囲内において懲戒の種類を選択したものと認むべきであり、賞罰委員会自体に不当労働行為意思が認められない以上、たとえ岡島に不当労働行為意思があつたとしても、岡島のこの意思と被申立人等に対する懲戒処分との間の因果関係は賞罰委員会の決定によつて中断されている」と主張する。
しかし、賞罰委員会は、労使同数の委員により構成される会社の諮問機関にすぎない。賞罰委員会がどのような判断で懲戒を答申したとしても、処分の決定が会社によつておこなわれた以上、会社の不当労働行為の成立がそれだけで否定されるものではない。なお、武甕らの処分に関する本件賞罰委員会の運営が必ずしも観光バス部門の職場の特殊性および職場委員としての活動の実態を充分理解しておこなわれたとは認めがたいから、この点からも会社主張のような所論は根拠に乏しい。
(結論)
四、以上のとおり、会社は被申立人の処分につき、形式的な理由をかかげているものの、いずれもその内容に乏しく、結局、これらに藉口し、手続を整備してはいるが実は被申立人の職場における労働組合活動を忌避してなされた処分と判断されるのである。したがつて、本件再審査申立は理由がなく、初審判断は相当である。
よつて、労働組合法第二十五条、同第二十七条、中央労働委員会規則第五十五条を適用して、主文のとおり命令する。
昭和三十三年十一月二十六日
中央労働委員会
会長 中山伊知郎